「狙撃されたのか」
琴子からそこまでの説明を受けたところで、壮士は改めて周囲を見渡した。
何の変哲もないビジネスフロア。その広さは100平米弱といったところか。
フロア内にはビジネスデスク・チェアが散見され、そのいくつかを壁側に寄せることでそれなりの空間が確保されていた。
これは澄が陣地構築する経過のなかで寄せたのだろう。
そこまではいい。
壮士が顔を険しくさせた理由は、事前の予想が当たっていたことにある。
(やっぱり追撃があったんだな)
フロアの荒れ具合から推定すれば、北岡と琴子が受けた襲撃が、最初の急襲狙撃で終わらなかったことは明白だった。
そう断定するに足る証拠がこのフロアには多数刻まれている。
場所によって数こそ違うものの、窓ガラスの大半に複数の銃痕と、それに伴うビビが入っていて、フロアマットや壁にも多数の銃痕が残っている。
加えて北岡のものと思われる生々しい血の跡。
これらのことから、二人が狙撃を受けたあとに追撃――それもこの場に踏み込まれての追撃を受けたことは間違いない。その追撃を琴子と北岡の二人か、あるいは北岡単独かは不明だが、この場で迎え撃ったこともまた、疑いようのないことだった。
もしかすると血痕については、襲って来た側ものも含まれているかもしれない。
壮士はこのフロアに足を踏み入れる前から、そうじゃないかと思っていた。
きっと澄も予想していたはずだ。
というのも、琴子に案内されるままビルの通用口に到着した直後にひと悶着あったのだ。
建物に入った直ぐ側から、通路の壁に多数の銃痕、通路の壁に血で付けられた手形が見つかった。
だが、その痕跡そのものは著しく想定から外れていたわけではない。
あらかじめ琴子から、北岡なる男が死亡していると聞かされていたのだから、交戦があったらしいことは驚くようなことではない。
だから壮士と澄の立場から言えば、北岡の死や通用口の状況から既に交戦があったことを織り込んでいて、そのあと狙撃があったことを知った格好になる。
ともあれ、この状況では安易に踏み込めはしないと壮士は主張し、澄もこれに同調。
安全確保を主張した二人に対して、琴子はしかし、
『問題ありません。既にもぬけの殻ですよ。念のためにお兄様に先行してもらい、そのあとにわたくし、最後に佐橋さんの並びで進みます。それでいいですか?』
琴子が同意を求めたのは澄に対してのみ。
振り返ってみれば、琴子が壮士に尋ねなかったのは服従どうこうではなく、純然たる澄への配慮だったんだと思う。
澄の立ち位置は依然として不安定だ。
今のところ壮士と琴子と行動をともにしているが、仕方なくそうしているというのが実情だろう。
既に壮士たちとの力関係は逆転していて、パートナーである北岡も死亡している。
この時点で壮士はまだ聞かされていなかったものの、琴子が囚われていたあいだの二人のやり取りを鑑みれば、澄が酷く警戒していたであろうことは容易に想像がつく。
その状況下で、琴子は戦闘の痕跡がある建物に入れと言う。
琴子は即ち「壮士と自分が先行し、最後尾に貴女を置く。必要と思ったならいつでも後ろから撃ってくれて構わない」と澄に配慮したのだ。
という次第なのだが、壮士は溜息をつかずにいられない。
(配慮したって、これじゃ……)
現場がこんな有様では、せっかくの澄への配慮も無意味どころか逆効果だったんじゃないか。
事実、澄は一貫して、琴子が経緯を語り始める前から危うい気配を放っている。
「……それで、北岡さんの死体はどこにあるの?」
澄が低い声で問うのも無理ない。
琴子に連れて来られたこのフロアに、北岡の死体が見当たらないのだから。
とはいえ、これもフロアに入る前から可能性の一つとして考えられたことではある。
北岡は死んでいないのかもしれない。
もちろんその確度は相当低いと、北岡の死体が見当たらない今でも壮士は思っている。
フロアまでの状況、フロアの中の惨状から、琴子と北岡が他のプレイヤーから襲撃を受けたのは疑うべくもない。北岡が撃たれたのも事実なのだろう。
が今は、北岡の死体の有無は論点ではない。彼の生死もさておくべきだ。
死体が見当たらないことで、澄の琴子に対する不信を買ってしまっていることが問題の本質だ。
正直なところ、澄はよくこの状況に耐えたと思う。
自身の所属を神だと語った琴子。その仲間である壮士ともに交戦の形跡がある建物に連れて来られる。協力者だった北岡は死亡したと告げられ、しかし現場に死体は見当たらない。
そんな環境で、自身は既に大半を知っている経過を琴子の口から長々と聞かされ続けるという、まあ、控えめに言ってストレスしかない時間をここまで耐えたのだ。
まして琴子はいまだ、澄がもっとも不信を覚えているであろう点、即ち北岡の生死、及び死体の在り処について触れていないのだ。
嵌められたと考えるのが自然な状況のなか、澄はよく琴子の語りに耳を傾け続けたと思う。
壮士だったらとうの昔に銃を抜いて「そんなことはいいから北岡の死体はどこだ!」と怒鳴りつけていた自信がある。
斯《か》く言う澄も、この部屋に入った瞬間から今に至るまで、ずっと右手をホルスターに添えているのだが。それでもこの忍耐力は称賛されるべきだと思う。
なので壮士は、
「まあまあ、澄ちゃん。そんな怖い顔しないで仲良くしようじゃ――」
「……澄ちゃん? 佐橋さんでしょう?」
敢えて気安い感じに話しかけてみれば、澄が食い気味に言って、冷めた目を向けてきた。
「俺のことは壮士でいいぞ」
ニタリと口の端を持ち上げた壮士に、澄は深い呆れの息を吐いた。
「あなたの影響じゃないの?」
意味がわからず壮士が首をかしげると、澄はジトっとした目で琴子を指し示した。
「人の話を聞かない性格」
「逆だよ。俺が琴子に影響されてるの」
壮士は小さく笑ってそう返したあと、表情を真摯なものに改めた。
「俺がこう言うのもなんだけど、琴子は息を吐くように嘘をつく子だ。
だけど、ここまでの話に限ってコイツは嘘をついていないと俺は思う。もしついていたとしても、必要があってそうしているだけだ。
琴子にその気があったなら、ここに来る前に始末できていたんだ。それに――」
澄も頭ではわかっているはずなのだ。
「北岡さんから『神と答えろ』って忠告されていたこと。
北岡さんが澄に何かしらの隠し事をしていて、澄のことを疑っていたこと。
この二つはあんたに伏せて当然な情報じゃないか。それをこの子は明かしているんだ」
つまり琴子は澄を騙すつもりもなければ殺すつもりもない。試すつもりすらない。試したいなら、壮士が挙げた二点を伏せたうえで澄の秘密を探ろうとしていたはずだ。
「……そういえば、まだちゃんと答えてもらっていなかったわね。あなたの所属は?」
「悪魔だ」
そう即答したうえで、壮士は、
「琴子の話に出てきた一馬は俺の兄貴だ。心は俺の従兄妹《いとこ》。穂乃佳お義姉様ってのは俺の婚約者になる。
三人とも琴子が巻き込まれた神のゲームのなかで殺された。俺と琴子は神に殺された人たちを取り戻すためにこのゲームに参加している。
俺たちは同じ陣営だ。信じてもらえるまでいくらでも、なんだって話す。
もし仲間になれなくたって、殺し合うことはないだろう?
警戒する気持ちはよくわかる。
だけどこれは話し合いで解決できることだ。平和的にいこう」
澄は数秒沈黙したあと、気が抜けたような息を吐くとともにホルスターに添えていた手を放した。
そのちょっとした動作が澄の意思表示だと壮士は受け止めて、
「ありがとう。もう少し我慢してくれ。悪いようにはしない」
そう素直な気持ちで感謝を告げると、澄は何故か眉をひそめた。
「意外と冷静なのね。もっと感情的な人だと思ってた」
「なら是非ともこの機会に認識を改めてくれ。俺はもとから平和主義者だ。琴子のほうがずっと好戦的だし、容赦だってないんだぞ」
そう澄に軽い調子で返しながら、壮士は不満げな顔をしている琴子に目を向けた。
「で、北岡って人の死体は別のフロアにあるのか? それとも――」
生きているのかと口にする前に琴子が首を振った。
「存じません。佐橋さんに北岡様が死んだと告げるよう指示したのは北岡様です」
「……彼はどうしてそんなことを?」
訝《いぶか》しげに尋ねた澄に、琴子は淡々と答えた。
「このフロアに佐橋さんを誘導して、わたくしとお兄様、北岡様の三人で貴女を拘束することが目的の一つでした」
目的の一つという言葉が引っかかり、澄と壮士が揃って眉根を寄せる。
琴子は二人が覚えた疑問を肯定するように頷いてみせた。
「北岡様はわたくしに判断を委ねられたということです。
今申し上げた通り、佐橋さんをここへ誘導して拘束するか。それともお兄様と合流するにとどめて、佐橋さんとは別れるか。あるいは北岡様は死んだということにして、佐橋さんとのみ協力関係を結べるよう試みるなど。取れる選択肢はいくつもありました。
その判断を委ねるにあたって、北岡様は一つだけ条件をつけられました。
わたくしの選択に関わらず、叶うなら佐橋さんの命は取らないであげてほしいと、そうお願いされていたのです。ですが……」
琴子は一度そこで言葉を切り、痛ましい顔でもっとも色濃く残っている血痕に目を向けた。
「やはり叶わなかったようですね。
わたくしは北岡様と佐橋さん、お二人と手を結びたかったのですが……」
そう落胆したように口にした琴子は壮士を見て、それから澄に向き直った。
「狙撃を受けたあとのことをお話します。
ただその前に、佐橋さんにご理解いただきたいことがあります。
わたくしは――いいえ、お兄様を含めたわたくしたちは、この第二戦に限って貴女と敵対しないことをお約束します。
むしろ、貴女と協力関係を築きたい意向です。
ここから話がどう転び、転んだ結果、もし貴女が手を結ばないと結論されたとしても、わたくしたちが危害を加えることはありません。ですから佐橋さんもお兄様とわたくしの身の安全をお約束いただけますようお願いします。
言葉でのみ決着します。荒事はなしです」
澄は眉間にしわを刻み、たっぷり十秒黙考したあと、
「いいわ。約束する」
「ありがとうございます」
そうして琴子は狙撃を受けたのちの成り行きを語り始めた。
◆
狙撃された――。それを理解した瞬間、琴子は大喝した。
「拘束をッ!」
「わかってるよッッ!」
叫び返し、北岡は琴子に覆いかぶさったまま、流れるように腰から銃を引き抜くと、窓という窓に向けて弾倉に込められていた弾のすべてを放った。
そこで終わらず、マガジンを交換した北岡はもう一度すべての弾を放ったのち、地を這うようにして窓際に走った。
「ぐっ……、くそっ……!」
腹を押さえる北岡は激痛にうめきながらも、倒れた際に取り落としてしまったナイフを掴む。そうして北岡は横倒しになっている琴子の元に戻り、
「利き手は!?」
「左ですっ」
北岡は歯を軋らせながら左手の結束バンドを切ると、血に濡れたナイフの柄を琴子に握らせた。
「あとは……ッ……自分でやれっ……」
琴子は頷き、両手両足の結束バンドを切っていく。
その傍らで北岡は肩で息をしながら腕を持ち上げ、部屋の奥を指さした。
「お前の装備はあそこに固めてある。自分の得物を取ってっ、こい……」
「承知しましたっ」
「怖いだろうが思い切って行けっ。心配ない、射線は潰してある……」
「ふふ、怖くなんてありませんよ」
励ますように北岡に微笑みかけながら、琴子はようやく彼がめくら撃ちした意図を理解した。
「はは、そうかよ……、太いなあ……」
「度胸があると言ってください」
北岡はできる限り狙撃手に狙いを定めさせないよう窓という窓にヒビを入れのだ。
事実、今のところ――という条件付きになるが、効果はあったと思う。最初の一発、その後の三発以降、狙撃は止まっていた。
「行きます」
「欲張るなよ……」
最低限の物だけにしておけというアドバイスを受け、琴子はフロアの対面に向かって駆け出した。
頭を低くしてひた走り、最奥に置かれていたベルトポシェットだけを引っ掴む。幸いなことに、戻るあいだも狙撃されることは無かったが、それならそれで別の懸念が持ち上がる。
ともあれ、これで銃と弾丸、ナイフに加え、少量の薬品を手にすることができた。
北岡は腹を押さえながら地べたに座り込み、開け放ったドアから廊下を伺い見ていた。
「傷を見ます。北岡様は佐橋さんに救援を」
言って、琴子は返事を待たずに北岡の服をまくり上げる。と、
「……様?」
怪訝な顔をして見下ろしてくる北岡に、琴子は不敵な笑みを返した。
「身を捨てて庇ってくださった恩人に敬意を払うのは当然でしょう?」
「変なやつだな……ぐ、ぅぅ……」
北岡の苦鳴と同時に琴子は顔に深刻を刻んだ。
右側腹部に穿《うが》たれた穴からとめどなく血が溢れている。
予断を許さないレベルの重傷だ。放置すれば死にかねない。が、
「致命傷ではありません。弾も抜けていますし、適切に処置すれば命に関わるものではありません」
言いながら琴子はポシェットからガーゼを取り出す。
北岡は抵抗こそしなかったが、力なく首を振って、
「俺のことはいい。お前は逃げろ……。トラップが反応した様子がない。ってことはまだ建物には踏み込まれていないはずだ。今なら間に合う……」
「見捨てません。止血します。前を押さえてください」
即座に断じ、琴子はガーゼを北岡に握らせると、自身は弾が抜けた側の傷を圧迫した。
「いいから逃げろって。追撃される可能性が……ッ……高い。俺だったら畳み掛ける。もし相手が複数いるなら鉄板だ……」
そうだろうな、と琴子は思う。
北岡が小さくない傷を負ったことは把握されていて、残る一人は見るからに貧弱な子供。射線が潰されたからにはとどめを刺しに来るか、生死の確認くらいしに来ても不思議じゃない。
相手が狙撃手ひとりだけなら現状で満足してくれる可能性はあるだろう。だがもし複数いるなら追撃してくる確度は相当に高い。下手をすると、現時点で出入り口を固められていることまで考えられる。
だからこそ、
「ここで迎え討って時間を稼ぐべきです。早く救援を――」
「馬鹿いうな。それこそ殺されるぞ……」
吐き捨てるように断じた北岡を見上げ、琴子は今さらながら思い至った。
――やってくれたなっ、さはしぃッ……!
狙撃された直後、北岡はこの襲撃が澄の手で図られたものだと、さも確信しているかのような恨み節を口にしていた。
「撃ってきたのは佐橋さんだと……?」
「あいつ自身か……ぐ、ぅ……あいつが手引きした奴かまではわからんっ。どちらにせよ、佐橋が無関係だとは思えない。条件が揃いすぎているだろ……」
そう前置きして北岡は自身の見立てを早口に、しかし苦痛に顔を歪めながら語った。
・このロケーションを選定したのが澄であること。
・北岡と琴子が合流するまでのあいだ、澄がひとりきりであったこと。
・澄がビルを出て行って暫く経ったタイミングで狙撃されたこと。
北岡が挙げたそれらは、どれも共感できる話ではある。
澄であれば狙撃ポイントを加味したロケーションを選定できた。仮に彼女が手引した者がいたとして、その人物と連絡を取り合う時間的な猶予もあった。であれば、襲撃するタイミングを図ることも容易だ。
動機まである。
澄にとって北岡が敵側であることは確実で、琴子も所属を神と告げている。
しかしそれでも琴子に言わせれば、北岡が言うように揃いすぎているとまでは思えない。
むしろ、
「到底納得できません。佐橋さんにその気があったなら、もっと確実かつ簡単にわたくしたちを殺すことができました。そうでしょう?」
琴子を尋問していたときがそれにあたる。
あのとき琴子は椅子に縛り付けられていて、北岡は頭の後ろに手を回した状態で跪いていた。その場で北岡を撃ちさえすれば、琴子なんて目をつぶっていても殺せたのだ。
なのにここに来て澄自身が狙撃、あるいは澄が誰かに手を回して狙撃させる――なんて手の込んだ真似をするのは道理が立たない。
琴子の主張を受け、北岡は天を仰いで独り言のように漏らした。
「ああ……、そうか、そうだな……。あいつには動機がないか……」
「え……?」
琴子は耳を疑った。
違う。そうじゃない。琴子は澄の動機をなんら否定していない。
澄が取った行動の合理性を説いただけだ。
澄は悪魔側だ。北岡は神側だ。琴子にしても澄の認識では神側なのだ。
殺す動機はある。
「だとしても佐橋はあてにできない……」
琴子は直感した。
琴子には理解が及ばないが、北岡は澄にこちらを殺す動機がないと認めている。
しかしそれでも尚、北岡は澄を頼る選択肢を取らない。
何故か。
その疑問の答えが即ち、北岡が危惧していた理由であり、琴子に所属を偽らせた理由だからだ。
「彼女は何者なのです」
北岡はまったく別の言葉を口にした。
「おれは……」
澄のことを尋ねたのに、何故か北岡は「俺は」と口にする。
そしてその告白もまた、琴子が予想だにしなかったものであり、
「俺は悪魔が神の陣営に潜り込ませたスパイだ」
「…………なんですって?」
まだ終わらない。
「で、佐橋は俺と同類で真逆。あいつは神が悪魔の陣営に潜り込ませたスパイだ」
「――――――」
驚愕する琴子に、北岡は自嘲の笑みを浮かせた。
「あべこべなんだよ。俺と佐橋は……。
俺たちは味方を騙《かた》って懐《ふところ》に潜り込んで、相手方のプレイヤーの寝首を掻く。そういうことを目的に配置された駒なんだ」
北岡は神の皮を被った悪魔の手先。
澄は悪魔の皮を被った神の手先。
「神も、悪魔も、あの化け物どもは、ゲームが始まる前からその手のことをやりあっている。化け物どもの化かし合いだ……」
琴子は悟った。
「だから……」
だから北岡は「神と答えろ」と忠告してきたのだ。
琴子が澄に対して悪魔と答えないよう促したのだ。
本当は神の手先である澄に、琴子が殺されてしまうことを危惧していたから。