悪魔の章 035.風切り音

そこからの流れはおおよそ壮士も知るところだ。
澄は琴子が持っていたインカムを通じて壮士に連絡を取り、琴子を捕らえていることを伝えた上で会う約束を取り付けた。

琴子はそのやり取りを直ぐ側で聞いていて、ごく短い時間だが壮士と話してもいる。
もちろん澄と話す壮士の声は聞こえていなかった。ただ澄の挑発的な話しぶりを見ていて、琴子は内心「もう少し穏便な話の持って行き方があるだろうに」と思ったものだ。
しかしそれも、無理ないことかもしれない。
澄の立場になって想像してみれば、その非友好的なスタンスにも理解が及ぶ。
壮士と琴子は現時点で敵側であることが濃厚で、北岡にしても潜在的には敵だ。
そんな環境下で澄は危険を冒して(暫定)敵に会いに行くのだから、彼女のなかでは依然として『壮士の殺害、そのあとで琴子の殺害』が基本線であることは想像に難くない。
琴子が解放されたり壮士と合流できたり、はたまた北岡と協力関係を結ぶなどすることは、澄にしてみれば何もかもが上手く噛み合った結果でしかないのだ。
ごく薄い可能性でしかなく、澄のなかの優先順位は決して高くないはず。
故に彼女が敵である壮士の排除を、もっとも高い可能性として想定するのは道理だ。
ともあれ、

「それじゃ、行ってきますね」
「気をつけろよ」
「ええ」
「なにもなくても定期的に連絡をくれ。いつでも駆けつけられるようにしておく」
「ありがとうございます」

そうして澄はひとりフロアを出ていった。
彼女の気配を感じられなくなると、北岡はフロアの隅にあったオフィスチェアを引っ張ってきて、それを琴子と3メートルほどの距離に置いた。
北岡がどかりとチェアに腰を下ろし、その背もたれに肘を立てたところで琴子は、

「危ない橋を渡らせてくれましたね」

といっても実際に渡るのは壮士だ。命の危険があるのも壮士だ。この流れを作った原因だって琴子にある。だがもし北岡が「神と答えろ」と忠告してこなければ、琴子は間違いなく悪魔と答えていた。
ならば琴子には恨み節を吐く権利があっていいはずだ。

北岡はしかし、嫌味ったらしく口の端を持ち上げた。

「俺は忠告しただけだ。佐橋に神って答えたのはお前の判断じゃないか」
「あんな意味深な目を向けてきておいて、よくもぬけぬけと」
「お兄様はなんて答えるんだろうな」
「基本的に悪魔と答えるよう申し合わせていると話したはずです」
「ならもしお兄様が殺されたなら、お前の下手《へた》打ちってことになるな」

眼光鋭く睨みつける琴子に、北岡は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「どのみちもう手遅れだ。お兄様が神と答えてくれるよう祈るしかない」
「つまり貴方は祈っていると」
「どうかな」

探るような目と無感情な目が交差する時間を経て、琴子は空気を改めるようにふっと息を吐いた。

「この際お兄様のことは置いておきましょう。せっかく二人きりで話せる機会です。今後を見据えて建設的な話をしませんか」
「心配じゃないのか?」
「そう易々《やすやす》と殺《や》られる人ではありません」

こちらの落ち着き払った態度が想定から外れていたのかもしれない。
北岡は興味深そうな眼差しで琴子を舐めたあと、頷きをひとつ。

「確かに。あの魔阿を殺す奴だ。簡単には死なないか」
「貴方は佐橋さんのなにを危惧しているのです」

さっそく本丸に切り込んだ琴子を受け、北岡は思考するように幾度か唇を指で撫でてから口を開いた。

「まずはこっちの質問に答えてもらおうか」

そう質問を返した北岡の目つきは、何故か憐れむようなものに変わっていた。

「どうしてお前はこんな酷いゲームに参加している」

なにを言うかと思えばくだらない、と琴子は思う。
まだ子供だとでも言いたいのか。助けてやりたいなどと思っているのかもしれない。
偽善だ。想像力に欠けている。
人を殺し、人に殺される覚悟を決めるに足る理由があるのだと、どうしてこの男は想像できない。想像できているならどうして尋ねる。
意味がない。
どんな事情があって、どんな事情を知ろうと、プレイヤーに許される選択は生か死の二者択一だ。殺さなければ殺される。殺さなければ手に入らない。それだけだ。

こんな会話は時間の無駄だ。無駄だけれど――、

「大切な人たちを取り戻すためです」
「……それは死んだ人を生き返らせるってことか?」

絞り出すように言って、北岡は痛みを覚えたように顔を歪ませた。

「ええ、その通りです」

想像は及ぶ。
きっと彼には彼の理由があるはずだ。みずからの命を賭《と》し、他人の命を奪うだけの理由が。そしてその理由は、琴子たちがそうであるように大きな痛みを伴う過去なのだろう。
だが、

「人ってのは、そんなポンポン生き返っていいものじゃないだろ」
「――――」

そんな言葉が聞こえた瞬間、琴子は無意識に北岡に飛び掛かろうとして、けれど叶わず、拘束された椅子ごと床に倒れ込んだ。
琴子はカーペットに頬を擦られながら、射殺さんばかりに北岡を睨みつけた。

「ころすぞおまえ……」

その苛烈すぎる琴子の反応に、北岡は目を剥いて喉を凍らせた。
琴子は無理だと頭でわかっていながら、湧き上がる激情を抑え込んで説く。

「わたくしの大切な大切な人たちが、もし事故や病気で亡くなったなら、わたくしは心から悼《いた》みます。
きっと悲しくて、つらくて、あんまりにも寂しくて、何度も泣いてしまうでしょうけれど、乗り越えられるよう努力します……」

許せない。絶対に許してはならない。
神の手先にこんな理不尽な言葉を吐かせるなど、琴子は断じて容認してはならないのだ。

「だけどその人たちは生をまっとうしていません! させてもらえなかったのですッ!
おまえの親玉に手を切り落とされ! 肌を裂かれ! 目をくり抜かれ! 身も心もズタズタにされたあげく! 最後は首を切り落とされて殺されたのですッッ!
そうまでされても一馬様はわたくしを救ってくださいました! 生きていてほしいと願ってくださいましたッ!
心だってそうです!
わたくしを救ってくれました! 自暴自棄になったわたくしを親友にしてくれました! 失ったものは取り戻せばいい、生きていればぜったいに取り戻せると励ましてくれたのです!
たとえ取り戻せても一馬様も心も! わたくしだって! すべてを失います! 二人と過ごした大切な記憶を奪われてしまいます!
だけどわたくしは取り戻してみせる! ぜったいにですッ!
親友たるわたくしがあの子の言葉を嘘にしてなるものですかッ……!
百合子様も美月様も萌様もアーニャさんも穂乃佳お義姉様も! わたくしのお母様も皆ッ! おまえの親玉に命を奪われましたッッ! なんの罪も犯していないのにッッ!
それを簡単に生き返っていいものじゃないですって……?
だったら殺すなッ! ふざけるなよッッ……!」

琴子はあまりの怒りに目を潤ませながら、唾を飛ばして北岡を詰る。

「神に殺されたのか……」

呆然と口にして、北岡は床に転がる琴子を痛ましい顔で見下ろしたあと、抜けるような息を吐き、それから顔を俯かせて目頭を揉んだ。

「すまなかった」

そう北岡が素直に侘びても、琴子は変わらず殺意が宿った瞳を向け続けた。
やがて北岡は立ち上がり、椅子ごと琴子を起こしてやりながら、

「お前に嫉妬したんだ。俺の大切な人たちはもう取り戻せないから」

悲しげに言って、北岡は琴子の肩にそっと触れたあと椅子に座り直した。
琴子は深い溜息と一緒に暴発してしまった熱を逃す。

「神に頼めば取り戻せないことはないでしょうに」

不貞腐れたような琴子の口ぶりに、北岡は渇いた笑みを浮かせて言う。

「それが駄目なんだそうだ。というか、できないらしい」
「そんなわけがありません。神《あれ》は生命すら生み出せる本物の化け物ですよ?
わたくしが知る限り、あれができないことは時間を遡るくらいなもので、人の命の一つや二つどうとでもできる力は持っています」

琴子には北岡が神に騙されているか、言いくるめられているだけじゃないかと思えてならない。
神はもちろん、悪魔にしたって、琴子はあの化け物どもが持つ力のほどを、みずからの目で幾度となく確かめている。
だが続く北岡の言葉で以って、琴子は考えを改めざるを得なくなる。

「お前は魂の存在を信じるか?」

魂。イヤな言葉だ。

「わたくしはおおよそ信仰とは無縁な女です。
ただそうしたものが存在するという話は悪魔から聞かされています」

悪魔は一馬に魂を穢せとそそのかした。それを喰らうつもりだった。
そして悪魔は一馬の魂を餌に琴子をこのゲームに引き込んでいる。

「お前が生き返らせたい人たちが死んでから、どのくらいの時間が経つ?」
「4ヶ月ほどです」

北岡は「そうか」と納得したように頷いた。

「それだけ日が浅いなら、さっきの熱の高さも無理ないか」
「そういう貴方は?」
「もうすぐ6年になる」
「6年……」

琴子は否が応でも想像してしまう。
一馬が、心が死んでからそれだけの長い月日が経ったとき、自分はどうなっているだろうか。6年もの時をどう生きただろう。
痛みや悲しみ、神への憎しみが風化してしまわないだろうか。諦めてしまっていたんじゃないか。
わからない。わからないけれど、もし北岡が失った人たちに対し、琴子と等しい強い気持ちを持っていたなら、彼が生きたこの6年はまさに生き地獄のような時間だったに違いない。
だって北岡は琴子に嫉妬したのだと言った。
その嫉妬心は、彼の内にある「取り戻したい」と願う気持ちが、6年を経た今でも色あせていない証左だ。

「魂ってのは、死んでから時間が経てば経つほど劣化? していくんだそうだ。
最後は刻まれていたすべてを失って、真っ白な状態で別の生物に定着するらしい。
俺の場合はもう手遅れ。たとえ同じ肉体を作って魂を無理やりねじ込んだとしても、そいつはもう別の何かになっちまうんだと」

琴子には覚えがなくもない話だ。
アーニャをあんな形で失い、神が言うところの一馬の魂が『歪んだ』あのとき、神は一馬の魂をリセットすることはできるが、歪みを正すことはできないと言っていた。
だったら北岡の話を裏付ける傍証になる。
正直スピリチュアルが過ぎて信じようがない話だが、魂とは神や悪魔ですら力が及ばない部分がある代物なのだろう。

そんな琴子の胸中を、北岡はいくらか読み取ったのかもしれない。

「ま、俺だって丸ごと信じているわけじゃないけどな。
だけど魂なんてもの、目にも見えなきゃ手にも取れない。裏の取りようが無いんだから引き下がるしかないだろ」
「でしたら貴方は神になにを求めたのですか?」

北岡の瞳に仄暗いものが灯った。

「復讐だ」

その身の上をいくらか察して琴子が顔を歪めると、北岡は「気にするな」と頬を緩めた。

「下之郷《しものごう》母子強盗殺人って事件に聞き覚えはないか?」

琴子はゆるゆると首を振る。

「ごめんなさい。そうした世情に疎くて……」
「謝ることはない。なにせ6年も前の事件だ。その頃だとお前はほんとに子供だったろうし、知らなくて当然だろ」

北岡はその事件で妻と子供を失ったのだと言う。
彼の息子はまだ生後半年だった。

「事件の詳しいことは話さないでおく。聞かされたって気分が悪くなるだけだからな。
裁判は今も続いているが、近々ようやく判決がでそうで……」

無期懲役はほぼ確定。争点は極刑を科されるか否か。
それらを北岡は話した上で、

「だけどな、どうしても無理なんだよ。6年経ってもおさまってくれないんだ」
「だからせめて。取り戻せないならみずからの手で復讐の機会をと、そう神に願ったのですね」
「相手が檻《おり》のなかじゃなきゃ、こんな馬鹿げたゲームに参加することもなかったんだろうけど。ままならないもんだよ」

北岡が自嘲の笑みを浮かせた――とそこで、ブツリと無線機が鳴った。

『桐山さんから連絡がありました』

北岡は琴子と目と目を合わせたまま、腰から無線機を引き抜いた。

「接敵は?」
『ありません。五体満足ですよ』
「それは良かった。それで、お兄様はなんだって?」
『他のプレイヤーと交戦になったせいで遅れるんだそうです』
「この10分かそこらのあいだで、まーたバトったのか……」
『しかも、またもや無傷で切り抜けたそうですよ』
「マジか。何者だよお兄様。さては無敵か……?」
『そうでもないみたいですよ? ガチでやり合っても殺されそうなので、相手に引いてもらえるようお願いしたんだそうです』
「苦労してるな……。開始そうそう鬼に見つかるわ、妹は人質に取られるわ、そのせいでプレイヤーと出くわすわ。不幸すぎるだろ」
『挙げ句このあと私とやり合うことになるかも、ですからね』
「もう死神か何かに取り憑かれているんじゃないか? ちょっと可愛そうになってきたわ」
『死神っているんですか?』
「なんで俺に聞く。しらないよ……」
『あなたのボスじゃないですか。もしかしたら身内かもーって。こんど聞いておいてください』
「はいはい、機会があれば聞いておくよ」

澄は『お願いします』と、クスリと笑ったあと、

『B11番出口近くのテナントを確保しました。簡単なトラップを仕掛けたあと、ここで桐山さんの到着を待ちます』
「了解した。こちらに変わりはない」
『またなにかあれば連絡します』

そのやり取りを最後に澄との通信が終わる。
けれど北岡は迷うような表情を浮かせて無線機を見つめ続けていた。
だから琴子は、

「貴方は佐橋さんのなにを危惧しているのですか?」

北岡は無線機から琴子に視線を戻しはしたが、唇を開く素振りを見せない。
琴子は重ねて問う。

「何故わたくしに所属を偽らせたのです」
「…………」

やはり北岡は答えてくれない。
くれないが、彼は立ち上がって、琴子の視線から逃れるように窓際に立った。
沈黙を貫くその背に向けて琴子は今一度呼びかける。

「北岡さん」

無言のときが一分を数えた頃、ようやく北岡が口を開いた。

「お前たちは本当に悪魔の側なのか?」

そう問いかけてきた北岡は変わらず窓の外を眺めている。

「みっともなく取り乱したわたくしの姿をその目で見ていながら、まだ疑うのですか?」
「お前が人を騙す天才かもしれないだろう?」

琴子はやれやれとばかりに肩をすくめた。

「悪魔です」
「間違いないか? 知っての通り俺は神側だ。ここで下手を打てば今度こそ命が無いぞ」
「くどい」

ピシャリと琴子が断じると、北岡は弱々しく「そうか」と口の中で唱えた。
北岡は窓の外を眺めたまま、さらに三十秒ほど沈黙を重ねたのち、不意に腰からナイフを引き抜いた。

「気が変わった」
「……というと?」

突然刃物を抜かれては、琴子は緊張せずにいられない。
だが、こちらを振り返った北岡の表情は敵意のない柔らかなもので、

「お前の拘束を解く。桐山を加えた俺たち三人で佐橋を……」

意図を話しながら北岡が琴子に向かって一歩踏み出した瞬間だった。

 

――ヒュンと、風を切ったような音が鳴った。

 

「……?」

北岡は足を止め、呆然とした顔でみずからの腹部に目を落とす。
そこには大きな血色の染みが広がっていて、無意識に添えた手のひらの面積を超え、今尚その侵食範囲を拡大させていた。

「北岡さん……?」

琴子の呼びかけに答えず、北岡は血で汚れた手のひらを見つめ、それから僅かに視線を上げてフロアマットに目を向けた。
そこには深々と銃痕であろう穴が空いていて――。

「ふせ……ろ……」

かすれた声で告げたと同時に、北岡は膝から崩れ落ちた。
琴子はあらん限りに目を剥き、前のめりに倒れた北岡を眺めることしかできなかった。

「――――――」

理解が追いつかない。
なにが起きたのか考えられない。
思考が止まってしまっている。

助けてくれたのは血濡れになった北岡だった。

「ぐッ、うぅ、ぉ、ぁ……、やってくれたなっ、さはしぃッ……!」

怨嗟混じりの声とともに、北岡がぎこちない動きで体を起こした。
四つん這いに床を這い、額に脂汗を浮かせた北岡が琴子に向けて大喝する。

「目を覚ませクソガキっ! 狙い撃ちにされるぞッッ!」

叫び終えるのを待たずに、北岡が体を投げ出すような勢いで覆いかぶさってきた。

「あぐッ……!」

椅子に縛り付けられている琴子は、なす術なく椅子もろとも横倒しに押し倒されてしまう。
直後、追い打ちするように追加で三度の風切り音が聞こえた。

「ねらいうち……」

痛みに顔を歪める北岡を間近に見ながら、琴子は呟きのような音を漏らす。
全身から汗が吹き出し、肌が粟立って、心臓が早鐘を打っているのを自覚してようやく、琴子の脳は稼働を再開させた。

「狙撃された……?」

クロ

クロ

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