悪魔の章 016.舌鋒(下)

「信用できません」

琴子が冷然と告げたと同時に、壮士は引き金を引いた。
放たれた弾丸は吸い込まれるように額を穿ち、神威が脳しょうをぶちまけながら後方に弾け飛ぶ。

「ッ……!」

続けて三発。崩れ落ちた神威に、壮士はとどめの凶弾を浴びせ掛けた。

その後に訪れたのは圧倒的な静寂。
たった一つだけ聞こえたのは男の呼吸する音だけだった。

「ハっ、ハァ……、っ……、ハァ……」

人を殺した。
こうする瞬間を、壮士はもう何度も何度も飽きるくらい想像してきたのに。
全身から汗が吹き出し、呼吸すらままならない。ひとりでに膝が笑い、視界が霞む。少しでも気を抜けばその場で膝をついてしまいそうだった。

「意外です。殺せるのですか……」

まるで空気を読まない琴子の声が届き、壮士はいくらか我に返った。
セリフの通り、彼女の表情は驚きを色濃く映していて。もしそうであれば、壮士は手違いで殺人を犯したということになってしまう。

「おい……」
「だって神の使徒なのですよ? 避けるか効かぬかと思うではありませんか」

愕然とした。

目の前、ほんの数メートル先に死体が転がっている。つい先程まで愛くるしい笑顔を浮かべていた女の子が、潰れたトマトのような脳の破片をぶちまけ、胸と腹から大量に流れ出た血で大地を紅く染め上げている。
確かに神威は人ではないかもしれない。憎き神が創り出した使徒かもしれない。けれど、人に酷似したその死体はあまりに凄惨で生々しく、言い訳を許さない現実的な死に彩られていた。
殺ったのは壮士だ。指示したのは琴子だ。なのにこの行為に対する二人の受け止め方はあまりに乖離している。
事ここに至っては琴子の受け止め方が正しいはずだ――そう頭で理解できて尚、壮士はショックを受けずにいられなかった。
琴子の罪意識の無さに。そして彼女と同じ境地に達していない自分自身に。

呆然と喉を凍らせた壮士に対し、琴子は気遣うようにそっと腕に触れ、

「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……。心配ない、少し動揺しただけだ」

絞り出した壮士の虚勢を受け、琴子は薄く微笑みかけてから周囲に目を走らせた。
遅れて壮士は射撃の構えを解かぬまま状況を把握しようと試みる。

「――――」

否が応でも真っ先に目につくのは、濃密な鉄の匂いを放つ神威だ。
赤い瞳には欠片も生気は宿っておらず、初弾を受けた時点で即死していたであろうことが伺えた。

残るは二人。

「…………」

悪魔はその表情に驚きの残滓を留めつつ、かすかに口の端を持ち上げていた。
その複雑な機微から、彼がこの事態をどう受け止めているのか伺えない。だた少なくとも、不快感や怒りといった負の感情は抱いていないように見えた。
そうして最後、

「カムイ……?」

唖然と目を見張り、神威の死体を眺める魔阿の表情は驚愕一色に埋め尽くされていた。
しかし数瞬の時を費やしたのち、その青い双眸に赫怒が宿り、

「……これはなんの真似ですか?」

殺気を帯びたそれは主犯である壮士へ向けられたものだ。
だが、壮士は答えるべき言葉を持たない。殺れと言われて殺っただけなのだ。

「どうすんだ。めちゃくちゃ怒ってるぞ」
「どうしましょうか。まさか殺せるとは思っていなかったものですから」

返ってきた答えはノープラン。
壮士は膝から崩れ落ちそうになるのをすんでの所で堪えて、

「とにかく決めてくれ。殺られる前にあの子も殺るか?」
「それはいけません。こちらに非があるのですから謝りましょう」

それは虫が良すぎやしないか、と壮士は諦め気味に呟きつつ、銃を握る手に力を込めた。
こちらの答え次第で魔阿は襲い掛かって来るだろう。そう直感できるくらい彼女の憤怒は鬼気迫るものだ。
琴子が一歩前に出て言う。

「どうかお兄様のことはご容赦を。殺せと命じたのは私です」
「だったら貴女に聞きましょう。ただ信用できないというだけの理由で殺したのですか?」

魔阿の声や表情に苛烈さは見られない。が、固く握られた拳が震えていた。
それまで用いてきた敬称も既に取り払われてしまっている。

「もちろんそれだけで殺したわけではありません。そも殺せるとは思っていなかったのです。マアさんのお怒りは当然ですが、どうか弁明する機会をいただきたく存じます」

琴子のそれを受け、魔阿は暫く悩む素振りをみせてから悪魔に向き直り、

「創主様、お願いできますか」
「ええ、構いませんよ。可愛い娘の頼みとあれば断れません」

悪魔がニコリと微笑んだ直後のことだった。
横たわる神威の身体からじゅるじゅると気味の悪い音が鳴り、ぶちまけられた脳や血液があるべき場所へ吸い込まれてゆく。まるで映像を巻き戻すかのように血が消え失せ、傷が塞がり、やがて赤い瞳に生気が戻った。
そうして蘇生したであろう神威はギョロリと目を剥くと、大の字の体勢のまま腰を折って、その勢いのまま空中に跳ねた。
上がった土煙を置き去りに神威は宙で二回転し、四足獣のように着地。おおよそ人間がなせる挙動ではない。
それから神威は憤怒に染まったルビー色の瞳を壮士に向け、

「痛かったァァァァァッッ――!」

灰色の全域を揺るがすような咆哮が響き渡る。

「いきなりなにすんだよッ! クソ人間がッ!!」

濃密な殺意をぶつけられ、壮士は全身に鳥肌が立つのを感じながら銃口を神威に向ける。
と、琴子が壮士の腕に手を掛け、無理矢理に銃口を下げさせて、

「指示したのは私です」

まずい、と感じた時には手遅れだった。

「ならお前から死ね」

消えた。ふっと、目の前にいたはずの神威の姿が溶けるように消えた。
驚愕に息が止まり、壮士は瞼の震えた刹那に神威の姿を見失ってしまう。

(速いッ!)

しかし、姿を消した少女の行方に視線を走らせる必要はなかった。
かろうじて目で追える速度。弩《いしゆみ》から放たれた矢のような尋常ならざるスピードで神威が迫っていた。
脳裏にその光景を捕捉した瞬間、壮士は銃による迎撃を断念。当てられる速度ではない。得物を手放し、右手を腰の裏に回しながら左手を琴子に伸ばす。

(ふざけるなよッ、こんなところでッッ!)

一瞬を薄く引き伸ばしたような狭間で壮士は願った。
馬鹿げている。ただ説明を受けていただけだ。神はおろか、未だ神の手先の一人とすら出会っていない。ゲームが始まってもいないこの場面で琴子を殺らせてなるものか。
そんな壮士の決死の願いも現実の前には無力だ。
琴子の服を掴みかけたその時、額を穿とうとする貫手が目前に迫っていて――、

「あら、また予想が外れました」

顔色ひとつ変えずに言った琴子の眼前。
額の数センチ先で凶刃は止まっていた。

「貴女が助けてくれるのですか、マアさん」
「こちらの要件がまだ済んでいませんから」

いつの間に接近したのか。目を向けられた魔阿は不快そうに目を細め、けれど神威の手首を掴むその手を放そうとしなかった。
そんな彼女を神威は血走った目で睨みつけ、

「放せ! コイツは殺すッ……!」
「いけません。プレイヤーに危害を加えてはいけないと、神様に言われているでしょう?」
「それはゲームが始まってからだろッ!? カムはママの言いつけ破ってない!」

唾を飛ばして言った神威に対し、琴子は「あら」とわざとらしく目を見張り、

「これは良い情報を聞かせていただきました」
「ナメてんのかお前ッ……!」

挑発とも取れる琴子の弁を受け、神威はより目を吊り上げ、魔阿もまた纏う空気を危うくさせた。

「それが円成寺様の目的ですか? もしそうならこの手を放さざるを得ませんが」
「まさか。そんなことの為だけにこんな危ない橋を渡ったりしません」
「であればカムイを殺した理由をお話ください。あと桐山様に警告します。腰の裏に隠しているナイフから手を放してください。さもないと円成寺様の頭に穴が空くことになりますよ?」
「……わかった、放す」

壮士は琴子の胸ぐらを掴んだ左手を維持しつつ、右手を持ち上げて空手であることを魔阿に示す。

「なんだって言うこと聞くから。だからその手を放さないでくれ」
「それは円成寺様次第です」

至近距離で睨み合う格好となった四人。
一心に注目を浴びた琴子は困ったように眉をハの字に曲げつつ、神威に向けて言う。

「先ほどの件はお詫びします。理由も包み隠さずお話しましょう。なので、まずはその物騒な手を下ろしていただけないでしょうか。怖くて仕方ありません」
「お前がモノを頼める立場か」

そう吐き捨て、神威が薙ぎ払うように手刀を放つ。
しかし琴子の首が刈り取られる寸前、魔阿がそれを受け止めて、

「早く話されるようお勧めします。次は足が飛んでくるかもしれませんよ?」
「承知しました。ただ理由はたくさんありまして……。話し終えるまで生きていられるかどうか」
「ならば言葉をよくよく吟味されますよう。気に食わぬ点があればカムイをけしかけます」
「まあ、怖い」

言いながら琴子は苦笑して、目前に死を突きつけられたまま意図したところを語り始めた。

「まず最初に申し上げておきたいことは、カムイさんとマアさんを紹介された際、私はやむを得ないと考えたということです」

琴子のそれは即ち、神威をゲームのディーラーとすることを受け容れていたということだ。
というのも、

「私たちは立場が弱い。たとえ神側に利する裁定を受ける可能性があろうと、容れる他ありません。ゲームが始まろうかという今、私たちに引き返すという選択肢は無いのです。加えてマアさんの存在がある以上、負うリスクは神の側も同様です。条件を俯瞰すれば異論を訴える必要は無いでしょう。
そもそも私は、ゲームの内容が伏せられることを了承した上で契約に応じました。ディーラーの存在はゲームの設備の一つと言えましょう。であれば現状を維持するのがベターです。不満を訴え、曲がり間違ってより不利な条件を敷かれては目も当てられません」

しかし、と琴子はいくらか厳しくした視線を神威に向けて、

「カムイさんは神の使徒。信用できるはずもありません。マアさんは悪魔のことを創主と呼び、カムイさんは神をママと呼ぶのです。主に神がカムイさんを、悪魔がマアさんを、それぞれ創ったのだと推察しますが――、どうなのですか?」

と、琴子がだんまりを決め込んでいた悪魔に目を向けると、老人はカカと嗤ってみせ、

「遠からず近からずといったところですな」

裏が取れたことに、琴子は顎を引き、

「ならば目に見えるリスクを放置できません。ディーラーは私たちの命運を握るキーマンです。ゲームが始まってしまえば、カムイさんと私はディーラーとプレイヤーという肩書に縛られます。故に、ただのカムイと円成寺琴子である内に手を打っておきたいと考えました」

そこまで話して琴子が魔阿に目をやった。
と、魔阿はここまでの話に異論はないとばかりに頷き、

「本題をどうぞ」
「はい。カムイさんを殺した――正確には殺そうとした理由をお話しします。一つ目、服従が機能するか確かめておきたかった」

直後、目を見張った壮士を横目に見ながら、魔阿は訝しげな顔を作り、

「服従とは?」
「私とお兄様の間で設けた約束事です。そうした経緯は省きますが、お兄様は私の命令に絶対服従と決まっています。しかしそれが本当に履行されるのか、実際に命令してみないことには分かりません。まして命じた内容は殺人です。私は常々お兄様が躊躇ってしまうのではないかと危惧していました。なのでこの機会を使って、お兄様が適切に機能するか確かめようと思いました」

そんな琴子の理屈は壮士に対してなら一定の説得力を持つが、殺られた側にしてみれば身勝手極まりないものだ。
神威は当然として、魔阿すら不快感を色濃くしたが、それを先回りして琴子は続ける。

「二つ目、お兄様に殺人の経験を積ませたかった。無論、貴女方が人であるかというとそうではないのでしょうが、姿形は人に酷似しています。想像の殺人と現実の殺人は別物です。ゲームが始まり、いざ行動に移さねばならなくなったその時、この経験がお兄様の命を守ることに利すると考えました」
「そんなのぜんぶお前の都合だろうがッ!」
「カムイさんの仰るとおり。すべてこちらの都合です」

魔阿は歯を軋らせる神威を痛ましげに見つめ、

「そんな理屈が通用するとでも思っているのですか?」

冷然と言った魔阿の声音は最後通牒に近い響きを帯びていて。
琴子はしかし、薄く微笑みながら切り返す。

「通用するかしないかは、貴女を創った創主様の意向次第ではないでしょうか」
「…………」
「続けても?」

かすかに口角を持ち上げて琴子がと問うと、魔阿は悪魔を一瞥してから頷きを返した。

「三つ目、カムイさんとマアさんの持つ強制力を確かめておきたかった」

意図を計りかねて壮士と魔阿が眉をひそめると、琴子は指を立て、

「ゲームを仕切るというのは、これでなかなか複雑なお役目です」

そう前置きして琴子が言う。
ゲームを仕切る者は、戦う両者の条件を公平に保ちつつ、定められたルールに沿っているかを判断し、問題が起これば終息させねばならない。

「これを実現させるには強制力が必要です。過去、私が体験した神のゲームを例に挙げましょう。あのゲームにはディーラーが存在しません。ルールとクリア条件を明示し、その後の運用はプレイヤーの判断に委ねられています」

しかしそれは、ルールに反した場合にペナルティを受ける――という強制力があって初めて成立するものだ。つまりゲームを仕切る者は、プレイヤーにルールを遵守させるだけの力を持っていなければならない。神のゲームでは、ペナルティという要素がその役割を果たしていた。

「一方、今回のゲームはディーラーが置かれます。カムイさんとマアさんは、プレイヤーがルールを逸脱しない為の抑止力となり、逸脱した場合はプレイヤーを処罰しなければなりません。それを行えるだけの物理的な力を持っているのか確かめなければと考えました。
両陣営は相手方を殲滅することを目的としています。何でもありの殺し合いなのだと、私は認識しています。追い詰められればちゃぶ台をひっくり返そうとする輩もおりましょう。私だって考えなくもありません」

彼女らとの会話を通じて確かめられたことはあった。
神威と魔阿はロボットではない。人間と変わらぬ知性を有しており、プレイヤーと共感できる感情も持っている。

「けれど、ただ話したただけでは物理的な力は図れません。故にお兄様へ殺せと命じ、その対処方からカムイさんの持つ力を図ろうと思いました。もちろん神と悪魔が創り出したお二人なのですから、どうせ銃など効かぬだろうと踏んでいたのですが……。予想が外れてしまいましたね」

そこまで語ると、琴子は神妙な顔を作って神威に目を向けた。

「そういうわけでして、まさか殺せるとは思っていなかったのです。痛い思いをさせて本当に申し訳ありませんでした」
「それでカムが許すとでも思ってるのか?」
「そう言われましてもお詫びするほかありません。カムイさんのお望み通り殺されるわけにもいきませんし……」
「マア!」
「今のが最後ですか?」

魔阿に問われた琴子は「そうでもないのですが」と曖昧に答えて、

「ときにマアさん。一つお尋ねしたいのですが」
「質問しているのはこちらです」
「大切な話なのです。お答えいただけませんか?」
「……なんですか」
「たとえばの話なのですが、マアさんがカムイさんのお立場であれば私を殺しますか?」
「殺さないと思います。でも創主様に排除をお願いするでしょうね」
「悪魔が否と言えば?」
「殺しません」

琴子は「ありがとうございます」と満足そうに微笑み、

「ようやく確証を得られました。四つ目が最後。貴女方に敷かれた強制力を確かめたかった、です」
「敷かれた……?」
「ええ、裁量権と言い換えてもいいでしょう。こう見えて私は一点だけ神を信用しています。アレは嘘をつきません。なので神が中立公正を命じたというなら、きっとそうなるのでしょう。
しかし、それを実現させるのはあくまでもカムイさんです。
カムイさんに神の命令を守る気があるのか無いのか、あったとしても状況によって翻すことがあるのか。要するに神の命令に強制力が伴っているのか確かめておきたかったのです。中立公正を担保する要だからです。……なのですが、この通り私はいま殺されかけています。カムイさんのお気持ちひとつでブレてしまう曖昧な命令であることが分かりました」
「ちゅーりつは関係ないだろ! お前がカムのこと撃ったから――」
「だとしても。プレイヤーに危害を加えてはならないとママに命じられたのでしょう?」
「まだゲームは始まってないからかんけーない!」
「それは不可解です。先ほどマアさんは『プレイヤーに危害を加えてはならない』と仰いました。それに対して貴女は『ゲームはまだ始まっていない』と答えた。ゲームが始まる前が命令の対象外であるなら、マアさんは貴女の行動を阻止したりしませんよね? だってマアさんはカムイさんを殺されたことに怒っておいでなのですから。ゲームが始まる云々はカムイさんの勝手な解釈なのではありませんか?」
「っ……」
「加えてマアさんは、ご自分がカムイさんの立場であれば私を殺さず悪魔に排除を願い出ると、そう仰いました。やはり合点がいきません。お二人の命令に対する解釈が異なります。ここで私を殺してはお母様の命に背くことになるのではないでしょうか」
「カムはママの言いつけ破ったりしないもん!」

瞬間、琴子はニタリと嗤い、

「ありがとうございます。言質をいただきました」
「お前っ……!」
「とはいえ言質などただの口約束。まずはなんとかしてここを乗り切らねばなりません。しかし乗り切りさえすれば、遺恨ある私に対しても中立公正にジャッジしていただけると、そういうことですよね?」

忌々しげに顔を歪める神威。
一方、琴子は柔和に微笑んでみせ、変わらず余裕を保っている。

そんな二人の間近に居ながら壮士はただ琴子の服を掴むだけで、嘴を突っ込みたくとも突っ込めないでいた。

琴子のそれは所詮は舌先三寸。余裕を保っていても命の危険に晒されているのは彼女の方だ。
そうなることを承知の上で琴子は命をベットし、利を取りに行った。そして今、会話の主導権を握っているのは琴子だ。少なくとも壮士が同じことをしていたならとうの昔に殺されていただろう。
故に舌先三寸と馬鹿にできない。琴子の弁舌はそれ一つで武器として成立している。
だが一方で評価は難しい。もっと穏便に済ます方法はあったのだし、ここで得た情報が後のゲームで役立つのかも不透明だ。誤算だってあった。結果論になってしまうが、リスクとリターンの帳尻が合っていると思えなかった。
それでも琴子の言う通り、この局面を乗り切りさえすれば一つの勝利に違いないだろう。
服従の実効性を確認し、壮士に殺人の経験を積ませた。琴子にすればこの二つはどうしても事前に担保しておきたかった事だ。本番で機能しないとなれば、それがそのまま死に繋がるとも限らないのだから。
ようは先にリスクを摘み取るか、曖昧なまま放置するかの違いだ。琴子は前者を選択し、さらに神威と魔阿の情報を取りに行った。そして琴子は現時点で既にメリットを獲得している。
だから今回の行いが正しかったのか愚策だったのかは、今は評価できない。死を回避できれば正しかったとなるだけのこと。勝てば官軍だ。

「…………」

そんな風に頭のなかを整理しつつ、壮士は悪魔を含めた四人を注意深く観察し、不測の事態に備えた。
いまさら何をどう言ったところで仕方ない。賽は投げられている。
こうなったら先のことは度外視だ。いま壮士が貢献できることは琴子を守ることだけだなのだから。

事態の潮目を変えたのは、悪魔の呟きが切っ掛けだった。

「小娘が驕《おご》っておる」

老人は表情にありありと失望を映しながら琴子を見やり、

「何を言うかと期待してみれば下らない」
「下らないと思うのは、貴方が主催側だからでしょう? 高みの見物は楽でいいですね」

即座に皮肉を返した琴子だったが、何故かその表情から余裕が失われていた。
彼女の反応を受け、悪魔はさもありなんとばかりに頷きつつ、

「いやいやそういうことではなく。嬢の他力本願っぷりが浅ましいと申しているのです。神威を手に掛けておきながらその余裕。私が嬢を殺さぬと踏んでいるからこそでしょう」

ピクリと眉を動かせた琴子に、悪魔はニヤニヤといやらしい笑みを貼り付け、

「事実、魔阿が割って入ったとき、嬢は『また予想が外れた』と申された。魔阿ではなく、私が神威を止めると思っていたのでしょう? 違いますかな?」
「…………」
「沈黙は肯定と受け止めますが」

口の端を持ち上げ言った悪魔に対し、琴子はただ双眸を鋭くするだけで口を開こうとしない。

「まあ、嬢がそう判断されたのは理解できます。ここで貴女を見殺しにすれば、私はゲームが始まる前に駒の一つを失うことになる。まして嬢は一馬殿の魂を諦めてまでスカウトした人材です。実際、貴女は有能だ。それゆえ期待も大きい。失うには惜しい人です」

琴子が黙っていたのはそこまでだった。

「わかっているではないですか」

言って、琴子が鼻を鳴らしたのと同時に、事態は結論へと向かう。

「私を見殺しにするということは即ち、貴方が無能を晒すということです」
「無能なのは嬢でしょう。策士策に溺れるという言葉もございます。貴女はその有能さに胡座をかいておられる。そんな人間のことを、人の世では無能と呼ぶのですよ?」
「相変わらず性格の悪いこと。そうやってネチネチと嬲《なぶ》っていれば私が媚びるとでも思っているのですか? 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと申します。指を咥えて待っていても欲しいものは手に入りません。私はリスクを負い、得るべきものを取りに行ったまでのこと。誤算があったことは認めましょう。しかしそれも含め、すべては悪魔の陣営が勝利する為にしたことです」
「故に嬢の窮地を救うことは私の務めであると、そう申されますか」
「ええ、申しましょう。ついつい皮肉ばかり口にしてしまいますが、これでも私は貴方を信用しているのですよ? 貴方は、一馬様とお兄様を騙すような小狡い真似もしますが、利と理を適切に容れる人であるとも思っています。その評価と信用を驕《おご》りであると唾棄《だき》するのは、貴方が無能である証左に他なりません」
「とても命乞いしている者の言い分とは思えませんな」
「いつ私が命を乞いました。私は、貴方の陣営が勝利する為に成すべきことを指摘しているに過ぎません。この場に立ったからには命を失うことなど覚悟しています」

「しかし」と、そこで琴子は言葉の矛を収め、悪魔の瞳を真摯に見つめた。

「殺すなら殺せ――、などと馬鹿なことは申しません。自分の立場はわきまえています。どうかカムイさんに引けと命じてください。損はさせません、必ず期待に応えてみせます」

目礼した琴子のそれは、真実命乞いではなく依頼なのだろう。
それを受け、悪魔は白い髭を撫で付けながら暫くのあいだ逡巡して、

「神威」
「……カム、やだかんね」

半ば答えを察していたであろう神威が口を尖らせる。
一方、悪魔が結論を出そうとしたその時、壮士の準備は出来ていて、

「――愚か者など不要。殺してしまいなさい」

ルビーの瞳に喜色が宿った瞬間、魔阿の手が離れた。
解き放たれた腕が振りかぶられ、再度貫手が琴子の額を穿とう迫る。
その直前――、

「どいてろ」

背後から琴子の胸ぐらを掴んでいた壮士が渾身の力を込めて腕を引く。
放り投げられた琴子が後ろに倒れ込み、そこへ風をうならせる神威の一撃が突き込まれた。都合、空振りする形となった少女の体が泳ぎ、壮士はその胸に腰から引き抜きいたナイフを突き込んだ。
が、刃は少女に届かない。サファイアの瞳を持つ少女がこちらの手首を掴んでいて、

「ご安心ください。殺すのは円成寺様だけです」
「それじゃ困るんだ」

ニコリと微笑む魔阿に舌打ちを返し、壮士は魔阿の後ろ襟を掴みつつ、がら空きの神威の腹に横蹴りを放った。神威の体がくの字曲がり、開いた口から苦鳴じみたものが漏れる。返す刀で魔阿の顔面に膝を放り込むも、彼女の手で受け止められてしまう。

そうして数秒の内に拳が飛び、脚が飛び、壮士は琴子を庇うべく地を蹴った。
幸いなことに追撃はなかった。魔阿は整然とこちらに向き直り、神威は虫をなぶる子供のような目でこちらを見つめていた。

壮士はふっと息を吐くと、未だ地面に倒れたまま、けれど銃を手にしていた琴子を見やり、

「殺るしかない」
「申し訳ありません。失策です……」

流石に動揺を隠せないのか、琴子が呆然と呟く。
かたや壮士は励ますように優しく微笑んでみせ、

「いいんだ。1メートル以上3メートル以内を維持しろ。それ以上になるとカバーできそうにない」

そう言ってはみたものの、正直活路を見出だせなかった。
さきの攻防から戦闘の技術だけならこちらに分があるのかもしれない。しかし身体能力がかけ離れている。
そして一番の問題は悪魔だ。たとえ神威と魔阿を殺せたとしても、あの老人が居る限り二人は事実上の不死。根本的な解決にならない。

「取り敢えず殺せることは分かってるんだ。どうにかして殺るから。そのあとお前が爺さんともっかい交渉してくれ」
「承知」

力強く答えて琴子が立ち上がった。
その声を聞いただけで伝わってくる。琴子は折れていないし、読みが外れたことにも引きずられていない。
それが分かれば十分だ。彼女の為に肉片になるまで戦ってみせよう。

「もういい? 殺るよー? 殺っちゃうよー?」
「桐山様は殺してはいけませんよ」

わかってるってー、と軽いノリで答えつつ、ぐるぐると腕を回す神威。
やる気満々な彼女に、壮士は挑発的な笑みを向けて言う。

「ごちゃごちゃ言ってないでかかってこいよ、くそガキが。もっかいぶっ殺してやるよ」
「なんだとぉ……」

途端に神威の目が吊り上がった。
分かりやすく挑発に乗ってくれたことに安堵しつつ、壮士はナイフを片手に腰を落とした。
赤い方が直情的なのは分かっている。ただでさえスペックはあちらの方が上なのに、冷静沈着な青い方と連携されると厄介だ。
速度からして銃は不向き。近距離かつ一撃で仕留めるしかない。

頭のなかでそうイメージしながら壮士が唇を舐めたその時だった。

「コラー!」

忘れたくとも忘れられない幼い声が天から降ってきた。
その声に真っ先に反応し、目を輝かせたのは神威だ。

「ママぁ!」
「ママじゃないでしょー? 顔合わせしたらすぐにかえってくるよー神様いったのに、カムカムってばなにやってんの!」
「聞いてママ! コイツらカムのこと鉄砲で撃ったの!」
「おー、それでー?」
「殺していいよね!? じーちゃもいいって言ってるし!」
「ばっか、カムカムばっか! そんなのダメにきまってるでしょ!」
「えぇ……、なんでぇ……?」
「こいつら神様のおもちゃなんだよ? 殺しちゃったら楽しみが減っちゃうじゃない!」
「やだぁ! 殺したい!」

駄々っ子のように神威が地を踏みつけた瞬間、

「へ……?」

彼女の肘から先がぼとりと落ちた。
時が止まったような空白を挟み、やがて傷口から噴水のように命の源が吹き出した。

「あ……ぁ……、アアアアぁぁ――ッ!」

絶叫し、錯乱して、神威が半分になった腕を抱えてうずくまる。
痛みに悶絶する少女の姿に壮士と琴子、そして魔阿ですら絶句する他なかった。

「つぎ文句いったら首チョンパするからね! わかったー?」
「わかったぁ! わかったからッッ!」

んー、と神の適当な返事が聞こえるや否や、腕は元通りに修復され、血の一切も消失した。
そのあまりに非現実的な光景を目の当たりにして、壮士は無意識のまま呟きを漏らす。

「すごい……」

これまで人外である悪魔と触れ合ってきた。神威と魔阿の人間離れした身体能力だって目撃している。どれも壮士の常識とかけ離れた物だ。
それでも神の起こす奇跡に驚きを禁じ得なかった。
異質だ。経過がない。瞬間がない。あるのは結果だけだ。一切の時を費やさず、神の意図した形に出来上がってしまっている。悪魔が神威を蘇生させたときですら経過があったのだ。

(本当に俺たちはこんな化物を殺せるのか……?)

そんな疑問を覚えた壮士を置き去りにして、神は好き勝手に事を進める。

「そーゆーわけだから、じーちゃもダメだかんね? だいたいこの二人はじーちゃのとこの駒でしょー? 自分で殺してどうするの!」
「ハハッ、お前がそれでいいと言うなら生かしておきましょう」
「よしよし。んじゃカムカムかえってきてー。神様の愉快な仲間たちのめんどーみるのはカムカムのおしごとなんだからね!」
「はぁい……」

神威がしょんぼりと肩を落として赤い扉に向かう。
その様から腕を切り落とされたことに対する怒りはおろか、恐怖すら覚えているように見えなかった。とぼとぼと歩く姿はさながら親に叱られた子供のそれだ。
やがて扉のノブに手を掛けた神威はこちらを振り返り、

「円成寺」
「……なんでしょう」
「お前、いっぱつめ赤の部屋に来いよ。お望み通りちゅーりつにジャッジしてやるよ」

お前にその勇気があればだけどなー、と神威はヘラヘラと嗤って、扉の向こうへ姿を消した。
琴子はしかし、神威の挑発に構うことはせず、

「神、まだいますか」
「んー? いるよー」
「お久しぶりです。私のことを覚えていますか」
「うん、ちゃんと覚えてるよー。なぜなら神様は神様だからですっ」
「一言お礼を。命を助けていただきありがとうございました」
「いいのー、どーせお前死ぬだろうけど、神様ってば個人的にお前のことおーえんしてるから!」
「期待に沿えるよう努力します。ときに神、以前のゲームで私に言ったことを覚えていますか」
「んー? 神様なんかいったっけ?」
「忘れもしない11日目。あなたは心と私にこう告げました。――復讐しにこい、と」
「おー、言ったかもしんない。円成寺琴子は復讐しにきたのー?」
「はい。復讐しに参りました。そういう訳で、いつまでも隠れていないで姿を見せてはどうですか」
「えー、神様いそがしーから今はむり!」
「……そうですか。残念です」
「最後まで生き残れたら会えるから! 復讐はそのときにしてね!」
「承知しました。必ず……、必ずや最後まで生き残ってみせましょう」
「うんうん、楽しみにしてるよ!」

じゃーねー、とご満悦な声を最後に、神の声が途絶えた。

「なんとかなったか……」

安堵の息を吐く壮士。神に命を救われたというのは遺憾なことこの上ないが、五体満足で生き残れたことは喜んでいいだろう。
一方、琴子は何故か我慢ならないとばかりに頬を引きつらせていて、

「貴方ッ……、担ぎましたね!?」
「ええ、少し痛い目に遭っていただこうかと思いましてな」

言って、悪魔が笑いを噛み殺す。
その傍らに立ち、魔阿が深々と頭を下げて言う。

「お許しください円成寺様、桐山様。創主様に灸を据えるよう仰せつかったものですから」
「? どういうことだよ」

一人だけ話についていけず壮士が眉をひそめると、悪魔は「いやいや」と手を振りながら言う。

「私がお二人を殺す筈がないでしょう? そんなことをしてなんの得があるというのですか」
「はぁ……?」
「この老害は私の意図したところを逆手に取って謀《たばか》ったのです。どうせ神が盗み観ていたことも察知していたのでしょう?」
「当然です。あれの性格上、嬢らを殺すことに反対するのはわかり切っていましたからな。放っておいても横槍を入れてくるか、万一嬢があのまま神威に殺されたとしても、あれが率先して蘇生させたでしょう」
「でも……、え? じゃあ、ぜんぶ出来レースだったってことか?」

首をひねった壮士に魔阿が「そうでもありません」と首を振り、

「カムイは勿論、私が怒っていたのも本当のことです。事の次第によっては円成寺様の排除も辞さないつもりでいました」

魔阿の説明に拠ると、神威が死んだ直後、魔阿と悪魔の間でこういう会話が交わされたそうだ。

『(魔阿)』
『(創主様ッ、この女を排除する許可をください!)』
『(気持ちは分かりますが、まずは落ち着きなさい)』
『(カムイを殺されたのですよ!? 捨て置けません!)』
『(嬢は必要な駒です)』
『(しかしッ)』
『(それに彼女は無能ではありません。まあ、神威を殺せると思っていなかったようですが。勝つ為に必要と判断してのことでしょう。まずは話を聞いてあげなさい。是非はともかく、筋の通った理屈は聞けるでしょうからな)』
『(……わかりました)』
『(もっとも、お前にとって神威は双子も同然。片割れを殺されて腹に据えかねるというのも分かります)』
『(私はともかく、カムイが黙っているとは思えません)』
『(でしょうな。安心なさい。二人に代わり私が灸を据えてやります。ただくれぐれも二人を傷つけないよう、お前が守ってあげなさい)』
『(畏まりました)』

そこまで聞いた壮士は盛大に溜息をつき、

「なんだそれ……、テレパシーみたいなもんか?」
「壮士殿とて以前に目にされておるでしょう。ほら、一馬殿と」
「あー、あったあった。爺さん、ゲームに戻った兄貴と話してたな」

よくよく考えてみれば、驚くほどのことでもなかった。
イチ人間である壮士からすれば、神も悪魔も何でもありの超存在なのだから。
とはいえ、

「にしても、ファンタジーの目白押しだな……。人間同士の殺し合いじゃなかったのか?」
「それは私に言われても困ります。事の起こりは嬢でしょう」

肩をすくめて言った悪魔に、黙って睨みを利かす琴子。
壮士に言わせればどっちもどっちだ。あの場面で神威を殺そうと判断した琴子も酷いし、それを利用して脅しを掛けてきた悪魔も性悪。二人とも腹黒で、性格が悪い。

「創主様」

とそこで、魔阿が悪魔に目配せをして、

「少し席を外してもよろしいでしょうか。神様側のプレイヤーの皆様へご挨拶を」
「ええ、行ってきなさい。残りの説明は私がしておきましょう」

三人に一礼して、魔阿が青の扉の向こうへ消えた。

神側でどんな事が起こるだろうか。
なんにせよ、ここで起きたような酷い始末にはならないはずだ。
壮士はそんなことをぼんやり考えつつ、悪魔に向き直って、

「じゃ、続きを聞こうか」
「続きと言っても説明はほぼ終わっています。残るは一つ。まずは初戦として、これよりお二人には一つ目のゲームに挑んでいただきます。が、会場は赤と青の両方。壮士殿と琴子嬢はそれぞれ別の部屋へ同時に入っていただくことになります」

途端に琴子は双眸を鋭くして、

「カムイさんの言った一発目というのはそういう意味でしたか」
「いきなり切り離されるのかよ……」
「そうなります。これは全体を通じて言えることですが、各部屋で行われるゲームの内容は、入室後に神威と魔阿から説明を受けていただくことになります」
「部屋の選択権は?」
「嬢らにあります。もちろんお二人が同じゲームに参加される場合は指定された部屋へ一緒に入室していただきます。その辺りについては、逐次魔阿がご案内します」

ということは、ゲームの内容に合わせて部屋を選択するという手段は封じられている。
そんな壮士と琴子の気づきを見透かしたように、悪魔はニヤリと嗤って、

「運も実力の内です」
「そうでもないだろ。俺ら……、特に琴子はカムイって子から恨みをかってるしな」

今回の一件を経て尚、神威は中立を貫くと約束した。
だが琴子自身が口にしたように、言質というのは拘束力を持たない口約束に過ぎない。
そんな曖昧な根拠で以って部屋を選択するのはそれこそ愚か者がすることだろう。

「そのリスクを込みで嬢は情報を取りに行ったのです」
「だから仕方ないって?」
「そうなりますな。一応誤解の無いよう申し上げておきますが、私は、此度の嬢の行動について評価しています。特に神威と魔阿の中立性、その拘束力の有無については嬢の行動無くして得られなかった情報でしょう。
まあ、ゆっくり茶でも飲みながら信頼関係を築くというわけにもいきませんし、強硬策もやむ得ない判断だったかと存じます。あとは引き換えに生じたデメリットを、お二人がどうコントロールするかに掛かっていましょう」

眉間にシワを刻みつつ、琴子が「どうも」と答えると、悪魔は片眉を持ち上げて、

「なんの。説明は以上となりますが、ご質問は?」
「ありません。やるべきことをやるだけです」

結構、と頷き悪魔は壮士へ目配せ。
壮士が首を振ると、老人は丁寧に腰を折り、

「ならば私はそろそろお暇《いとま》します。時を置かずして魔阿が戻りましょう。後はあれの案内に従い闘いに挑まれますように」
「わかった」
「以降、神殺しを成すその時までお目にかかることはございません。これが今生の別れとならぬよう祈っております」
「ウソつけ、クソジジイ」

苦笑して吐き捨てた壮士に、悪魔はカカと嗤ってみせ、

「ご武運を――」

それを最後に悪魔の姿は溶けて消えた。

モノクロの世界に二人きり。
壮士はクーリエバッグから小型のペットボトルを取り出すと、琴子に差し出し、

「一口だけ飲んどけ」
「ありがとうございますっ」

その礼の言葉は壮士の気遣いに対してではなかったようで。
琴子はボトルを受け取らず、跳ねるように抱きついてきた。

「おいおい、なんだ急に」
「身を捨てて私を守ってくださいました」

壮士は自然と口元を緩めると、短い黒髪をそっと撫で、

「やっぱりお前は正しかった。頼りになる参謀殿だ」
「そんなことありません。危ういところでした」
「賭けに勝ったじゃないか。俺たちがいま生きていることが、お前が正しかったことの証だよ」
「信頼してくださり、琴子は嬉しゅうございます」
「当たり前だろうが。兄貴と心となっちゃんの次にお前を信じてるのは俺なんだぞ?」
「ふふ、一番とは言わないのですね」

弾む声でそう言って、琴子が顔を上げた。
こみ上げる喜びを我慢するようなその表情に、壮士も釣られて笑顔になる。

「三人に遠慮してんだよ」
「私は愛されていますね」

ニマニマと笑う琴子に、壮士は「調子に乗るな」と脳天にチョップ。
それから再度ペットボトルを押し付けて、

「で、どうするよ」
「部屋の選択ですか?」
「ああ、一応俺の意見を言っとくと……」
「お兄様が赤で私が青、ですよね」
「そういうこと。だってさっきの今だぞ? どう考えたってお前が赤ってのはマズイだろ」
「私もそう思うのですが……」

そう曖昧に呟き、琴子は顎に手を添えて、

「私の意見を尊重してくださいますか?」
「それはまあ服従なんだし、従うけどさ」
「考えがあります」
「考えね……。ほんと、お前の頭のなかはどうなってんだ」

考えがあるというからには、壮士と琴子がどちらの部屋に入るべきか、それを判断する材料足り得る何かがあるのだろう。もちろん壮士は何も思いつかない。
と、そこで青の扉が開いた。

「お待たせしました。桐山様、円成寺様」
「神の手先への挨拶は済みましたか」
「はい、滞りなく」

言って、魔阿はスカートの両端を摘むと、軽く膝を曲げて一礼した。

「改めてご挨拶申し上げます。お二人の案内役を務めますマアと申します。悪魔のゲームへようこそ。早速ではございますが、これよりお二人には初戦の殺し合いに挑んでいただきます」
「どうぞよろしく。貴女の創主様から説明は受けています」
「ならば赤と青。お二人が臨まれる部屋をお選びください。選択権はお二人にございます」

その件なのですが、と琴子は手に持つペットボトルを壮士に放り投げて、

「お兄様と私、どちらがどの部屋に入ればいいのかマアさんが決めてください」
「は……?」

口をあんぐりと開けた壮士を捨て置き、琴子は不敵な笑みを貼り付けて言う。

「マアさんの決定に従います。決めてください」
「円成寺様、それは困ります……」

やはりと言うべきか、困惑したのは壮士だけではなかったらしい。
魔阿は銀色のおさげを揺らしながら首を横に振り、

「私に選択権はありません。また、中立を旨としている身ですのでご助言差し上げるわけにも参りません。どうぞお二人がお決めになってください」
「確かに。マアさんは中立のお立場ですからね。特定のプレイヤーに便宜を図ることはできないでしょう。なれど私は思うのですが、ただ部屋を決めるだけのことが中立を犯すことに当たるでしょうか」
「当たります。私は立場上、各部屋で行われるゲームの内容を知っていますから」
「あら、それは初耳です。てっきり私は、貴女がディーラーを務める青の部屋で行われるゲームの内容のみご存知なのかと思っていました」

途端に、魔阿が警戒したように眉をひそめた。
しかし、琴子はお構いなしに続ける。

「ともあれマアさんの言い分はごもっともですね……。両方のゲームの内容を知っているとなると、便宜に当たるかもしれません……」
「どうぞご理解ください」
「そう言われましても、何も知らぬ私たちには決めようがないのです。なのでサイコロを振るような軽い気持ちで決めていただこうと思っていたのですが……、困りました」
「……なにが仰りたいのですか?」
「いいえ、特に何も。困らせてしまってごめんなさい。いくら“中立に強制力が伴わない”とはいえ、マアさんの決定に“何かしらの意思”が働いていたとしたら大問題ですものね」

セリフの内容に反し、琴子の口元はニタニタと歪んでいて――。

「悪魔を創主と呼ぶマアさんは、私の同胞《はらから》とも言える気の置けない人です。そんな方に下手を打たせるわけにはいきません。万一マアさんが“便宜に相当する何か”を示唆しても、私は見て見ぬふりをすることにしましょう」

そうベラベラと好き勝手に話し終えると、琴子はジッと魔阿を見つめた。
その漆黒の瞳は、明け透けに「お前はどっちの味方なんだ」と問うていた。

もう、本当に、壮士は心の底から思った。

――コイツは悪い子だ、と。

クロ

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