最後の兄妹の日。
壮士と琴子が二人きりで過ごすその日は、過去の例に漏れず楽しい一日となった。
いつも通り壮士がハンドルを握って、琴子が助手席に陣取る。
風の向くまま気の向くまま。兄妹の日はいつだってノープランだ。
なのでまずはドライブがてら、その日をどうすごすのか相談するのが通例だった。
結果、水族館に行こうという話になったのだが――、
「さ、お兄様。マンボウさんを観に行きましょう」
「え? 俺はアクアテラリウム観たいんだけど」
到着そうそう意見の食い違いが発生。
「…………」
「…………」
ピクリと眉を動かし黙り込む二人。
果たしてそれは牽制か、あるいはウォームアップの時間か。
「お兄様は私に服従のはずでは?」
「馬鹿いうな。それはゲームに限ってのハナシだろうが」
一瞬にしてハリボテ兄妹の間にきな臭い空気が漂い始めた。
戦端を開くは妹。
琴子は処置なしとでも言わんばかりに溜息しつつ、挨拶代わりのジャブを繰り出す。
「テラリウムなんてただの観葉植物ではないですか」
「こらこら観葉植物と一緒にするんじゃない。テラリウムってのは箱庭の中に自然を再現し――」
「講釈は結構です」
「……あァ?」
ピシャリと断じた妹のそれを、兄は正しく宣戦布告と認識した。
妹はしかし、ガンをつける兄を華麗にスルー。それからクイッと服の袖を引いて、
「水族館なのですよ? お魚を見に行きましょうよ」
「淡水魚だって魚だろう? マンボウみたいな魚モドキあとでいいじゃないか」
「それこそ草の鑑賞なんてあとで良いではありませんか」
「草だと……?」
「なんです? 草でしょう?」
マンボウさんが観たい琴子。淡水魚水槽が観たい壮士。
琴子はデカイ魚が好きなのだ。
一方、芸大出身の壮士はアクアテラリウム等の芸術要素のある水槽が好きだったりする。
加えてイジることを愛情表現としている暫定兄と、やたらと我の強い自称妹の二人きり。
となれば、起こるは必然――。
「なんだ、自分がチビだからデカイのに憧れるのか?」
「ハッ、学のない挑発ですね」
マンボウが先か、草が先か。そんな極めてどうでもよいことで二人は争い始めた。
ちなみにこの二人。別々に好きなモノを観に行くという選択肢を持っていない。
今日はあくまでも兄妹の日なのである。
「挑発? 学がない? いやいや、お前がチビなのはただの事実だろう?」
「事実であろうとなんら問題ありません。私はコンプレックスと思っていませんから。小柄な女の方が可愛げがあるように見えるものですよ? そんなことより私は、チビなどという蔑称《べっしょう》を用いるお兄様の品性が残念でなりません」
「品が無くて悪かったな」
「ええ、一馬様の弟君と思えぬ粗末ぶりです。だいたいこの様な場面で女の希望を優先させぬとは、なんという器量の乏しさでしょう。お兄様の振る舞いは人としての品格のみならず、男の道理にももとるというもの。猛省なさいませ」
「おいおい、お前が男の道理をどうのこうの言えた義理かよ。さっき言ったよな? チビの方が可愛げが“あるように見える”って。うっわ、あざとい。ヤダヤダ、計算が透けて見えるわー」
「……なんですって?」
「これじゃ“品のある兄貴?(笑)”も萎えちまうだろうなー」
「それはつまり一馬様への中傷ですか? であれば許しませんよ」
「んだとコラ、俺をこと散々けなしといて兄貴はダメってか。随分と扱いが違うじゃねえか」
「もぅ……、言ったそばから汚い言葉を使う……」
挑発と揚げ足取りの応酬を繰り広げるハリボテ兄妹。
関係が変化したのは奈津とだけではない。今となってはこれが二人の平常運転だ。
決して短くない期間寝食を共にし、汗を流し、失った人たちを想い、痛みに耐え、時には傷を舐め合いながら、壮士と琴子が一緒に作り上げた兄妹の在り方だった。
ともあれこの小競り合い。なんのかんのとやりあった挙げ句、ジャンケンで決めようと結論。
最終的にマンボウ琴子が勝利した。
「わぁ……」
「はは、そんなへばりつかなくたって。マンボウさんは逃げやしねえよ」
そうして壮士は暫しの間、真剣な顔でマンボウを観察する琴子を愛でて過ごしたのである。
◆◇◆
水族館を後にしたのは昼どきをやや過ぎた頃だった。
「バーベキューをしましょう」
琴子が言うには、元より今日のランチはそのつもりだったようで、クーラーボックスとバーベキューに必要な機材一式が車のトランクに積み込まれていた。
「なら海にでも行くか。グアムに居るのにあんま泳いだ記憶ないし」
「ですね」
二人して苦笑い。
とはいえ、ここグアムは屈指のリゾート地。海岸なんてどこも観光客でいっぱいだ。
ならばと二人は別荘にUターン。あそこには円成寺のプライベートビーチがある。
どうせならなっちゃんも誘ってあげようと考えた壮士だったが、
「水着回を狙っているのがミエミエですよ、エロ壮君野郎」
そんないわれのない非難を受けつつも、三人いっしょに肉を貪り、水遊びして、砂の城を作り、スイカ割りなんてベタな遊びにも興じた。
琴子のデカイ乳と、奈津の控えめな乳を鑑賞させていただいたのは言うまでもない。もちろん水着の上からなのだが。
そうして気づけば、最後の兄妹の日が終わろうとしていた。
「…………」
「…………」
砂浜に並んで座り、壮士と琴子はじっと水平線を眺める。
奈津の姿はない。気を利かせてくれたのだろう。いつの間にか姿が見えなくなっていた。
柔らかく包んでいた夕日が海に溶け、風が渚の潮騒とともに二人の間を吹き抜けて行く。
「寒くないか」
「ええ、大丈夫です」
そっかと言って、壮士は握り込んだ砂を風にさらす。
さらさらと流れ落ちる砂は空と同じ赤紫に染まっていて、一日の終わりを感じさせた。
「なんか、ほとんど砂の城作るのに時間使ってたような」
壮士が苦笑い気味にそう言うと、三角座りする琴子は海に目を向けたまま、
「大作ができましたね」
得意気に笑って、琴子は砂遊びの余韻を楽しむように砂に足を埋めた。
壮士は半分だけ首を巡らせて、背後に鎮座する大きな砂の城を見やる。
どちらかといえば芸術肌な壮士。凝り性の琴子。そして無表情に黙々と手を動かす奈津。
それはもう立派な砂の城が完成した。
「ああ、大作だ……」
しかし、その城も潮風に吹かれて崩れかけていた。
今日またひとつ。壮士と奈津にだけ残り琴子には残らない思い出を重ねた。
兄妹の日がどれだけ楽しくとも、楽しかった分だけ口惜しさが積み上がる。
だが、それを口にするのは自慰行為以外の何物でもないだろう。痛みを負うのは琴子なのだ。
だからこそ、
「今日はここで撮るか?」
かけがえのない思い出に形を与える。
この日覚えた情動が偽物ではないのだと、失った彼女に知ってもらう為に。
「はい。でももう少しこのまま」
構わないかと目で尋ねてきた琴子に、壮士は「いいよ」と頷いてみせ、
「なにか考えごとか?」
「? どうして?」
「いや、あんましゃべんないし、ずっと海ながめてるから」
「好きなのです。海が」
言って、ふわりと笑った琴子の笑顔はとても綺麗だけれど、その内側にある感情はなに一つ読み取れなかった。
「……ならいいんだ」
ふと不安に駆られることがある。
ちゃんとこの子に寄り添えているのだろうか、孤独にさせてはいないだろうかと。
だってこの子はとても上手に偽る子だから。
表情の変化に乏しい奈津と違い、琴子は敢えて心の内を読み取らせようとしている節がある。
それが嘘であろうと、真《まこと》であろうと。上手に、したたかに。自分が描く心のカタチを他人に読み取らせようとしているんじゃないか。
確信足り得る根拠はただの一つもない。漠然とそう感じる瞬間があるというだけのことだ。
ただ確かなことは、琴子の口から紡がれる言葉のどれが本音で、なにが建前なのか、その境目はあまりにも曖昧で。
だから壮士は、この少女が腹の奥底で一体なにを思っているのか、それを想像するのが怖くなることがあった。
それから互いに口を開くことなく、海を眺めて過ごす時間が続いた。
やがて空から朱が失われ星の光がハッキリと見えるようになった頃、
「馴れ初めを教えていただけませんか」
「馴れ初め……? 穂乃佳とのか?」
「ええ」
「なんだよ急に」
「恥ずかしいからと、穂乃佳様には断られてしまいましたから」
「ああ……、そういやお前らそんな話してたっけ」
一瞬、胸に走った痛みに壮士が顔を歪ませると、琴子は慰めるようにこちらの腕に触れて、
「ごめんなさい。そんなつもりでは……」
痛ましげな顔の琴子に、壮士は「いや、別に」と微笑みを返して、ゴロリと砂の上に寝転がった。
それからお前も寝転べと顎をしゃくって、
「なんかアイツ、恥ずかしいだのなんだの言ってたけど、俺らの馴れ初めに甘酸っぱいエピソードなんてありゃしないぞ?」
「構いません。私は恋愛初心者ですからね」
ニコリと笑い、琴子が隣に寝転ぶ。
興味津々な彼女に壮士は呆れの溜息をひとつ。
「初心者でも参考にならないと思うけどなあ」
「つまるところ話すのが恥ずかしいと」
「違う。恥ずかしくなるような話なんてホントないから」
本当に恥ずかしくない。
ただ壮士は、これから聞かせてやる話でさえ、いずれ琴子の記憶から失われてしまうという現実が悲しかっただけだ。
「まあ、穂乃佳みたいに出し惜しみはしないけどさ。本当につまんない話だぞ?」
「それでも構わないと言っているではありませんか」
「そこまで言うなら聞かせてやろうじゃないか」
「是非に。わくわくします」
あんまり期待するなよ、と前置きしてから壮士は話し始めた。
「馴れ初めだけだと三行で終わっちまいそうだし、まずは出会いから」
穂乃佳との出会いは小学5年生に上がった春休み。
向かいに越してきた榊一家が挨拶に来たのが最初だ。
「第一印象はどうでした? もしかして一目惚れとか」
「だから……、そういう甘酸っぱいのはないって」
親の後ろに隠れて落ち着かない様子の穂乃佳。
そんな彼女を見て、壮士は特別なんとも思わなかった。
強いて言うなら小5の割にそこそこ育っていた胸に興味を惹かれたくらいで、
「こいつチチでけえ、エロい、って思ったぐらいだな」
「マセた子供ですね……。まだ小学5年生でしょう?」
「あの年頃の男ってのはな、遊ぶこととエロいことしか考えてないんだ。なのにまだセンズリも知らないんだぞ? や、知ってた奴もいたんだろうけど俺はまだ知らなかった。とにかく意味もなくチンコ勃つし、悶々とするわで――、……いま考えるとありゃ地獄だな」
「一体なんの話をしているのですか……。そういうのはいいですから。続きを」
「へいへい」
穂乃佳らが挨拶に来た際、家には壮士と母親と一馬がいて。
社交的な母親と一馬、榊のお母さんと三人で、随分と盛り上がっていたのを覚えている。
そんななか不意に母親が言ったのだ。
「困ったことがあればコイツ使ってくださいって。俺の頭はたきながら。ひどくない?」
「お母様なりの愛情表現なのでしょう」
「兄貴もそうしろそうしろって言ってたな」
「ふふ、それも一馬様なりの愛情表現に違いありません」
それからしばらくして。
壮士が穂乃佳と再会したのは新学期に入ってからだ。
「テンプレの『新しいお友達を紹介します』ってのがあってさ。んで先生が『榊さんが慣れるまで桐山が色々と教えてやれ』って言うんだ――、という話は穂乃佳から聞いてるんだっけ?」
「はい、お聞きしました。面倒を見るなど名ばかりで、ずいぶん冷たくされたと」
「いや、よくよく考えたらおかしいと思うんだよ。そりゃ確かにあいつは俺ん家の向かいに越してきたけどさ。それだけで面倒みろって話にはなんないと思わないか?」
確かめたわけではないけれど、母親と榊のお母さんとの間で何かしらの話があったのだろう。
実際は、こちらの親がありがた迷惑的にねじ込んだのだろうというのが壮士の見立てだ。
「真実がどうであれ、穂乃佳様に意地悪したのは本当のことでしょう?」
「失敬な。意地悪なんてしてない」
「ああ、そうでした。可愛い子に意地悪するのは礼儀、なのでしたよね。お兄様はご自分の美学を貫かれただけでした」
「うっせ。でもどうだろ。じっさい意地悪したのかもしれないな。だってアイツおどおどしてばっかでさ、イラつくんだよ」
「天の邪鬼にもほどがあります。可愛いと思っていたと、素直に認めればいいのに……」
「ああ思ってた。これでいいか?」
「ふふ、はい」
「で、そんなおどおどしてたアイツが変わったきっかけは……、穂乃佳から聞いただろうから省くとして」
一馬と血だらけの闘いを繰り広げた末に、壮士は『可愛い子に意地悪』のくだりを告白。
それを聞いた穂乃佳が泣き笑いした――、その翌日のことだ。
『桐山くーん……、学校行こう……?』
おっかなびっくりといった感じに、穂乃佳が迎えに来たのだ。
「それまでは俺が穂乃佳を迎えに行ってたんだけど。もちろんしゃーなしに。とにかくアイツが迎えに来るなんて初めてのことだったから、ちょっとビックリしてさ」
茶碗を持ったまま、壮士が『なんだ、お前?』と尋ねると、
『えっと……、桐山くんの面倒見るように、お兄さんに頼まれたから……』
『お前アホか。そんなもん真に受けるやつがあるかよ』
壮士がぶっきらぼうにそう言った直後、背後に一馬が立っていて、
「あのボケ、後ろから俺のこと蹴飛ばした上に踏みつけて……。それで穂乃佳に言ったんだ」
「なんとおっしゃったのですか?」
昨日と同じく固まっていた穂乃佳に、一馬は優しく微笑みかけてこう告げたのだ。
「さあ、穂乃佳ちゃん。コイツを踏むんだ、ってな」
「えっと、意味がわからないのですが……」
「なんでも立場をハッキリさせとくための儀式なんだと。もちろん俺と穂乃佳の立場のことな」
「一馬様、ひどいですね……」
「だろう? お前の知ってる兄貴は最新モデルなんだ。旧型は屑の畜生だ」
「それもなんだかよく分からない例えですけれど……。それで穂乃佳様は?」
「長いこと悩んでたけど、最終的にエイって」
「ふふっ、踏まれてしまったのですねっ」
本当に穂乃佳が変わったのはそのことがきっかけだったんじゃないか。
実際、壮士に悪意がなかったと知ったところで、それまで引っ込み思案だった穂乃佳が態度を急変させるのは難しいことだ。
もちろん兄はそんな高尚なことを考えた末に、穂乃佳に踏めと告げたのではないだろう。
アレは単なる嫌がらせだ。
しかし、あの意味不明な儀式が穂乃佳の気持ちに変化をもたらしたのだろうと、今ではそう思っている。きっと穂乃佳は壮士を踏んづけたことで色々と吹っ切れたのだ。
「そこで穂乃佳との距離感が出来上がった感じ。俺のこと名前で呼び捨てにするし、毎日朝迎えに来るし、宿題やれってうるさいし。喧嘩したら兄貴とお袋に告げ口するし、心をイジっても兄貴持ち出して脅してくるしで……。とにかく口うるさいのと、俺の世話を焼きたがるのは、昔も今も変わらないかな」
「ありがとうございます。とても素敵なお話を聞かせていただきました」
「ここまでの話に素敵要素があったか……?」
「もちろん、ありましたとも」
「ならいいけど」
「しかしここからが本題です。お二人は、いつ、どういったことが切っ掛けで恋仲となられたのですか?」
「恋仲って響きちょっとエロいな。琴子が言うと特に」
「セクハラはまた今度にしてください」
あっさりとスルーされ、壮士は「ノリ悪いなあ」と嘆息しつつも語りを再開。
もっとも、穂乃佳と付き合うことになった経緯の説明は三行で済んでしまう。
中学三年の夏――。
『俺らって付き合ってるよな』
『……? ええ!? いつ私たち付き合ったの!?』
『違うのかよ』
『知らないよ……。うん、まあ、あんたが私のこと好きなのは知ってるよ? でもそれならそれで、ちゃんと告白ぐらいしてくれないと、私だって応えてあげられないよ……』
『好きだ。付き合ってくれ』
『う、う~ん……、いいんだけど。こういうんじゃなかったはずなんだけどなあ……』
壮士はそこまで話すと、ペチペチと手を叩きながら「めでたしめでたし」と言って、
「すまん。三行じゃなくて六行だったわ」
「……それで?」
「それでもなにも『もう付き合ってんだし、胸揉ませてくれ』って頼んだ」
「そんなことを言ったのですか?」
「うん、言った。そんくらいいいだろう? 彼女なんだから」
「それで、触らせてもらえたのですか?」
「いや、ぶん殴られた。あと心に『壮君サイテーだね、知ってたけど』って言われた。ひどくない?」
「ひどいのはお兄様です。最低ですね」
そんな感じに壮士を非難した直後、琴子は鋭い眼光で以ってこちらを睨み、
「まあ、お兄様が最低なのはともかくとして。今のお話、嘘ですね?」
「うそ? 嘘なんてついてないぞ」
「言い方を変えましょう。意図的に伏せた事実があるはずです」
言って、琴子が口の端を持ち上げる。
絶対の自信を感じさせる彼女の態度に、壮士は早々と観念して、
「……相変わらず見透かすやつだな。なんでわかった?」
嘘を暴かれ、悔しげに顔を歪ませる壮士。
が、琴子は困惑したように眉をハの字に曲げて、
「えっと、ちょっとカマをかけただけなのですが……」
「俺ってやつはなんてチョロいんだっ!」
「チョロくてもいいですから、もっとちゃんと話してください」
「えぇ……、いま話したじゃないか」
「六行ではぜんぜん足りません。どういう状況で告白されたのか、どうして告白しようと思われたのか、どういう気持ちで伝えられたのか、そういうことを私は聞きたいのです」
「しかたないな……。なら仕切り直すか」
ボヤきつつ、壮士は語りを再開。
中学三年の夏。穂乃佳にちょっとした事件が起こった。
実際は事件というほどのことでもない。
穂乃佳が同級生から告白された――らしい。
「らしい?」
「まあ、もうちょっと聞けって」
というのも、壮士はその事実を一馬からまた聞きしたからだ。
ある日。部屋でゴロゴロしていたところに一馬が入ってきて、
『なあ壮士』
『なんだよ』
『なんか穂乃佳がな、クラスメイトの男から告白されたんだって』
『へえ……、今度はどいつよ?』
『名前は知らん。俺は相談されただけだから。よくあることなのか?』
『よくってほどじゃないけど、たまにあるよ。アイツ乳でかいし、結構モテるみたい』
『そりゃそうか。穂乃佳は可愛いし、面倒見がいい子だからな』
『んで、兄貴はわざわざそんなこと言いに来たのか?』
『そんなことって……。お前、焦んないのか?」
『なんで俺が焦るんだよ。どうせいつもみたくゴメンナサイされて終わり――、って相談されたって……?』
『おう、さっきまで話してたんだけど、お前の耳にも入れとこうかと思って。兄貴だし』
『兄貴だし?』
『いやだから。俺はお前の味方だぞって意味だ』
『まあいいけど……。んで、穂乃佳はなんだって?』
『それはプライベートなことだからノーコメントだ』
『意味わかんねえ。なら兄貴はなにしに来たんだよ』
『だからな? 内容は言えないんだけど、忠告ぐらいはできると思って』
『忠告だあ?』
『お前、今回ばかりは焦った方がいいかもしれないぞ』
『…………』
『言わなくても分かってるだろうって気持ちだって、ちゃんと口にしないといけない時がある。俺はそう思う』
『まあ……、言ってることはわからんでもない』
『ならいいんだ。穂乃佳、今度は心に相談してみるって。心の部屋にいるぞ』
『アイツなに考えてんだ……。あんなちびっ子に恋愛相談してどうすんだよ』
『それでも心は女の子だからな。案外あの子の意見に左右されるかもしれないぞ?』
まあそんだけだ、と一馬は笑って部屋を出ていった。
「――な? 兄貴のやり口っていやらしいだろ?」
「なにを言っているのですか。思い遣りに溢れた優しい兄上ではありませんか」
「いいや、あのクソ兄貴。俺のこと焚き付けて面白がってたんだ。性格悪いったらない」
「……お兄様はもう少し人の善意というものをお信じになるべきです」
「人を信じろなんて、よりにもよってお前が言うのか。ビックリだ」
ともあれ、それから壮士はたっぷり三十分。
無意味に正拳突きしたりゴロゴロ転がったりして悩む時間を過ごしたのだが、
「あ、そうそう。今の話でおかしな点があったことに気づいたか?」
「? いいえ。おかしなところなんてありましたか?」
「心の部屋ってやつだ」
「それが?」
「いや、穂乃佳も心もおかしいんだよ。よそんちの子なのに俺ら以上に我が物顔なんだ。心なんて、なんでか知らんけど自分の部屋まで持ってるんだぞ? どう考えてもおかしいだろう」
「まあ、それは確かにおかしいのでしょうが……」
「なんだその顔」
「もちろんそれがお兄様なりの愛情表現だと存じているのですよ? けれどお兄様という人は、何かにつけては一馬様や心の文句ばかり……。面倒なご性分だなと、改めて思ったもので」
しみじみとそう言って、ちいさく溜息をつく琴子。
それが彼女の紛うことなき本心であることが伝わったからこそ、壮士は結構なダメージを受けた。
「なんかごめん……」
こちとら常識を説いただけだ。
よそんちの子が人の家を我が物顔で闊歩している。それは間違いなくおかしなことなのに――、反面、この胸に去来するいたたまれなさはなんなのか。
「いいえ、謝らないでください。いずれ私のこともアレコレ言われるようになるのでしょうが、それは愛していただいている証なのだと、前向きに考えることにします」
「うん……、話を戻そうか」
「そうしてください」
壮士は悩みに悩んだ末、穂乃佳に直接真偽のほどを確かめてみることにした。
そうして心の部屋の前に立ち、そっと中を覗き見ると――、
『あー! 壮君がのぞいてる!』
『もぉ、壮士……。女の子の部屋なんだよ? ノックぐらいしなよ』
女子二人からのお叱りを無視して、壮士はチョイチョイと穂乃佳へ手招き。
眉間にシワを刻みつつもすんなり外に出た来た穂乃佳に対し、壮士は二度三度咳払い。
『心となにしてんだ?』
『宿題みてあげてる』
『宿題? 本当に?』
『そんなことで嘘ついてどうするの。あんたこそなにしに来たのよ』
『俺か? 俺は……アレだ。ちょっと大事な話があって』
『大事な……、私に?』
『うん、まあ、そんな感じ』
流石に壮士の挙動不審っぷりに気づいたのか、あるいは何か思い当たることがあったのか。
穂乃佳は眉をひそめたあと、緊張した面持ちで喉を鳴らして、
『なあに?』
『俺らって付き合ってるんだよな?』
直後、穂乃佳は意味がわからないとでも言わんばかりに首をひねり、それから大きく目を見張って、
『ええ!? いつ私たち付き合ったの!?』
『違うのかよ』
『私に聞かれても知らないよ……』
『そっか、俺はもう付き合ってるもんだとばかり思ってたわ』
『なにそれぇ……、わたし告白してもらってない……』
『大丈夫、俺もした覚えないから』
『意味わかんないし……。というか、急にどうしたの? なにかあった?』
『別に』
『別にって……。まあ……うん、あんたが私のこと好きなのは知ってるよ?』
『なにいってんだ。お前が俺のこと好きなんだろうが』
『…………』
『なんだよ』
『えっと一応確認しとくけど。壮士のなかでは私たち付き合ってるんだよね?』
『ああ、そうみたいだな』
『なら別れてもいいよね? あんたムカつくし』
『良くない』
『どうしろっていうのよぉ……』
『好きなのは認める』
『あ、認めるんだ』
『この際しかたない』
『なにそれムカつく! もう別れる!』
『待て、認めるから! 俺が好きだ!』
『なんかどんどん譲ってくね……』
と、そこで、心が穂乃佳のスカートをクイッと引いた。
いまだ小学生のちび心は悲しそうな顔でゆるゆると首を振りつつ、
『壮君なんてやめとこ? もっといい人いっぱいいるよ?』
『心、お前はあっち行ってろ』
『やだ! 穂乃佳お姉ちゃんは心のお姉ちゃんなんだよ!』
『アホか。穂乃佳は俺の彼女だ』
『ね? お姉ちゃん。年下の女の子にアホ言う人なんてやめときなよ……。苦労するよ?』
『泣かすぞお前』
『そしたら一馬お兄ちゃんに言うもん!』
『もう私の恋がメチャクチャだよぉ……』
やいのやいのと言い合う壮士と心を前に、穂乃佳は手で顔を覆って泣き真似。
それでも本当に泣きはしない。
こんな馬鹿馬鹿しいやり取りが桐山家の日常であり、穂乃佳だってその一員なのだから。
穂乃佳は腰に手を当てて、壮士をズビシと指差し、
『とにかく! 好きなら好きでちゃんと告白ぐらいしたらどうなの!』
『なんだ、告白すりゃいいのか』
『うん……。してくれないと、私だって応えてあげられないよ……』
『好きだ。付き合ってくれ』
『軽っ!?』
『これ以上どうしろってんだよ。オーケーなのか、それともオーケーなのかハッキリしろ』
『答え一つしかないじゃない……』
『お姉ちゃん。ほんと、悪いこと言わないから。ゴメンナサイしとこ? ね……?』
腕組みして睨む壮士。
悲しげな顔してスカートを引っ張る心。
『う、う~ん……、まあいいか。壮士だし。でもこういうんじゃなかったはずなんだけどなあ……』
そう穂乃佳が肩を落としたところで、壮士と穂乃佳は正式に恋人同士となったのだ。
「――というのが、本当の馴れ初め」
「もうなんというか……、言葉が見つかりません」
「な? 甘酸っぱくなかったろう?」
「甘酸っぱいどころか、ただただ穂乃佳様が不憫で……」
「だから期待するなって言ったのに」
「それにしたって想像を絶する酷さです」
琴子の感想はもっともだと思う。
きっと穂乃佳はもっとロマン溢れる告白を想像していたはずで。
しかし、現実なんてそんな上手く行かないものなのだ。
「結局のところ、穂乃佳様が告白されたという話は本当だったのですか?」
「ああ、それはホントだったみたい」
「ということは、それを利用して一馬様が計られたと。そういうことですか」
「どうかな。付き合うことになったって言ったら、『どうした!? なにがあった!?』って兄貴ホンキで驚いてたし、狙ってやったんじゃないと思うよ」
そうして壮士は事の顛末を語って聞かせた。
まとめるとこんな感じだ。
ある日、穂乃佳が告白された。穂乃佳はその場で断ったらしいのだが、
『もうっ、聞いてよカズ兄!』
穂乃佳はその話と共に『いつまで経っても壮士が告白してこない』と一馬に愚痴ったらしい。
もちろん一馬は、壮士と穂乃佳が何年も前から両想いであることをよくよく知っていて、穂乃佳のそれも『またか』程度に聞き流していたらしい。
放って置いてもその内収まるところに収まるであろう二人。
とはいえ、ずっと待っている穂乃佳を不憫にも思うので、一馬はちょっとだけ援護射撃してやろうと思ったとのことだ。
が、そのちょっとしたことが――、
「お兄様の告白に繋がったと」
「だな。ちょっと焚き付けたくらいでお前が動くなら苦労しないって、兄貴ボヤいてたよ」
二人してクスクスと笑い合って、それから壮士は大きく息を吐き、
「俺にとっての穂乃佳はさ」
「はい」
「側に居るのが当たり前。体の一部みたいなもんなんだ。そりゃ確かに告白については悪いことしたなって思うけど、そんなもん吹き飛んじまうぐらい大切にしてきたつもりだ」
「……そうなのでしょうね。お兄様のことを話される穂乃佳様はとてもお幸せそうでしたから」
「お前がそう感じてくれたなら俺も胸を張れるよ。ありがとう」
「礼には及びません。私こそお礼を。お兄様や穂乃佳様だけでなく、一馬様や心の話を聞かせていただけたこと、とても嬉しゅうございました」
「恋の参考になりそうか?」
「ふふ、ならないでしょうね。むしろ穂乃佳様を反面教師として、一馬様から残念な告白を受けぬよう気をつけませんと」
「心配しなくたって、兄貴は俺みたいな抜けた真似しやしないさ」
「だとしても構いません。一馬様には私の方から告白するつもりですから」
そっか、と壮士は笑い、ポケットからスマホを取り出した。
不思議そうにこちらを眺める琴子。
ぎゅっとスマホを握り締め、壮士は躊躇う素振りを見せてから琴子へこう告げた。
「心に会いたいか?」と。