悪魔の章 010.神様のゲーム

なっちゃんにストンピングされまくったその日の夜。
夕食を終えたリビングの空気はすこぶる悪かった。

というのも、

「いいかげん機嫌なおせよ」
「フンっ……」

やんわりなだめた壮士に対して、琴子はプイッとそっぽを向いて不機嫌をあらわにする。

遺憾なことに、今朝露見したゴミ問題は未だ終息していなかった。
出会った当初から壮士に甘々だった琴子ではあるが、今回ばかりはプライドの高い彼女の逆鱗にふれてしまったようで。

「悪かったって。そんなしかめっ面してたら可愛い顔が台無しだぞ?」

こうして朝からずっと謝り続けているのに一向に許してくれる気配がない。
壮士としては罰(ストンピング)も受けているので、もうそろそろご勘弁願いたいところである。

「おだてても無駄です。許してあげません」

言葉だけ切り取るとただ拗ねているだけのように思うが、ぜんぜんそんなことはない。
琴子はそれこそゴミを見るような目でこちらを睨み、

「よくもまあ私のことをゴミなどと……、お兄様でなければ再起できぬほど社会的に殺しているところですよ?」

目が怖い。声が怖い。何よりセリフが怖い。
ショートヘアーになった琴子は、以前と比べてグッと大人っぽさが増したのだが、幸か不幸かそのせいで外見的な圧力までかさ増しされてしまっていた。

「だから……。ゴミ言ったのは俺じゃないんだって」
「でもポンコツとは言ったのでしょう?」

ねえ、ロブ? と水を向けられたロバートは腕組みしながらウンウンと頷き、

「ソージはカスだ」
「てめえはなんで部外者気取ってんだよ。ゴミ言った張本人だろうが」

脊髄反射する壮士。しかし肝心のツッコミの方は今ひとつ精彩に欠ける。
なっちゃんにさんざん踏みつけられたせいで身体のあちこちが痛むのだ。
それもこれもすべてハゲのせいである。

そんな壮士の事情も知らずに、ロバートは「そう怒るな」と歯を見せて笑い、

「ちゃんと考えがあってしたことだ」
「考えだあ? また適当なこと言いやがって。いつもの嫌がらせだろうが」
「まあ聞けって。今朝ゴミを強くする方法を聞いただろう?」

瞬間、琴子の瞳から虹彩が失われた。
彼女はヌルリと首を巡らせると、とても美しい微笑をロバートに向けて、

「ミスターマイヤーズ。つぎ私のことをゴミと言ったら生まれてきたことを後悔させます」

もはや呼び名が愛称ですらなかった。
隣に座る壮士は冷や汗をかきつつ、どうどうと琴子の頭を撫でて、

「もうゴミ禁止だ」
「わかったわかった。真面目なハナシだしな」

そうぞんざい答え、ロバートは食後酒のラムを一気にあおると、らしからぬ真剣な顔を作って口を開いた。

「あのときコトコについて言ったことはだいたい本当のことだ。トレーニング方法を変えたところでコトコが劇的に強くなることはないだろうな」
「そう言ってたな」

壮士が追認する一方で、琴子はあからさまにおもしろくない顔を作る。
無理もない。ゴミ呼ばわりされたことに憤ってはいても、琴子は自らの不出来を理解できぬほど不明な女ではない。ましてロバートのそれは、彼女の努力が『無駄だ』と言っているに等しいものだ。
内心では、おもしろくない以上に歯がゆさを感じているだろう。

無論、壮士も、ロバートも、その程度のことが分からぬほど鈍くはないわけで、

「でもだいたいってことは、嘘ついたことがあるってことなんだよな?」
「ああ、ノープランってのがウソだ。これでもお前らのお師匠様だからな。ちゃんと考えてるぞ」
「聞かせていただきましょう」

途端に琴子の瞳に意気が戻った。
そのことが壮士はなんだか無性に微笑ましく思えて、意識せぬまま口元を緩めてしまう。

「ソージ、初めて会ったときに俺が言ったことを覚えてるか?」
「? ああ、もちろん覚えてるよ。生き残る方法を身に付けろ、だろ?」

ロバートは満足そうにひとつ頷くと、今度は琴子に目を向けて、

「コトコ、お前らの原則を言ってみろ。初日に教えたヤツだ」
「戦闘は最終手段、です」

生き残ることが最優先。
戦闘は最終手段である。

この二つの約束事はロバートの指導に於ける大原則、言わば不文律として二人に敷かれているものだ。
故に状況シミュレート等についても、相手を殺傷すること以上に避けること、それも可能な限り無傷で逃げおおすことに力点が置かれている。
ようは“逃げるが勝ち”が基本方針なのだ。

しかしながら悪魔のゲームは殺し合いだ。
逃げ続ければ生き残れるのかもしれないが、それでは勝ちを得られない。

ロバートは続ける。

「前にも話したが生き残りを優先することも、戦闘が最終手段なのも守りじゃない。攻めだ。
ヒトってのは不思議なもんでな。『まだ死なねえのか』って思うぐらいしぶとい時もあれば、ものの数秒で死んじまう時もある、そういう生き物だ。
だから徹底してリスクを排除する。尻尾を巻いて逃げろ。可能な限り戦闘は避けろ。真正面からガチで殺り合うなんてバカのすることだ。逃げながらこっちが一方的に殺れる状況を作ればいいんだ」

ロバートのそれはつまり、ゼロ百でいうところの百の結果しか求めてはいけないということ。
激闘の末、あるいは負傷の末の勝利などに価値はない。こちらが無傷のまま相手をなぶり殺しにできる環境や状況を作ることを優先しろ、という考え方だ。
故に直接戦闘は、やむを得ない場合に限っての最終手段とされている。

「了解」
「承知しています」

この方針を、壮士と琴子は徹底して教え込まれていた。異論もない。
奇襲・強襲・待伏せは戦闘に於ける基本戦術だ。それは現代戦であろうと千年前の戦争であろうと変わらない。戦術的有効性が認められているからこそ繰り返し用いられ、現在も用いられているのだ。
しかし、

「ロブの方針は承知していますが、実際のゲームでは武器の使用が禁じられるケースも考えられます。そうなると結局は力業《ちからわざ》で臨まねばなりません」

琴子の指摘はもっともで、一方的に蹂躙するにはそれを可能とする得物《えもの》が使えることが前提となる。
武器使用の禁止はある意味で公平だ。
しかし、いま問題としているのはまさにそこであり、琴子の直接戦闘に不安があるという点だ。

ロバートが首肯して言う。

「問題はそこだな。繰り返しになるがコトコを……、そうだな、たとえばコトコをナツと同じぐらいに強くするのは無理だ。正直このあたりは持って生まれたモノと言うしかない。
もちろんこのままトレーニングを続けていけば、今よりも体力はつくだろうし、技術も洗練されると思う。コトコの努力は俺もソージも認めてるよ。無駄じゃない。
ただ、もしコトコが丸腰かつ一対一で殺り合わないといけない状況に追い込まれたとしたら、それはもう相手がどんな奴だろうが分が悪いと考えた方がいい」
「そうですか……」

悔しげに唇を噛む琴子。
そんな彼女を慰めるようにロバートは「でもな、コトコ」と言って、

「それはソージだって同じことだ」
「ロブの言うとおりだ」

壮士はロバートに同意しつつ肩をすくめて、

「技量に勝る方が必ず勝つわけじゃない。スポーツだって格闘技だってそうだろう?」
「これは競技ではなく実戦です」
「だな。でも実戦だったら尚の事だ。身を守ってくれるルールがないんだから」

要するに確度の問題なのだ。強者が勝つのは道理だが、それは見込みが高いというだけで保証されたものではない。番狂わせ・金星なんて普通に起こることだ。
まして実戦ともなれば、様々な要素が勝敗に影響を及ぼすだろう。
運も絡むだろうし、精神状態だってまともじゃない筈だ。実力を十全に発揮できるかどうかも怪しい。よしんば勝てたとしても五体満足でいられるとは限らない。
そう考えれば、丸腰という条件下で、壮士が力量に劣る相手に遅れを取ることも十分あり得ることなのだ。
だからといって、

「ですが……」

琴子の表情は晴れない。
その事実が問題の解決となるわけでなし、気休めにすらなっていないのだから。

ロバートは琴子の目を見ながら「続けるぞ」と言って、

「無いものをねだっても仕方ない。大切なのはさっき言ったような状況を作らせないことだ。成り行き上そうなっちまったら……、まあ腹をくくるしかない。それにな、コトコ。悪いばかりじゃないんだぞ? お前にはソージやナツより優れている強みがある」
「……というと?」
「お前はすこぶる“触り”がいい。ソージ、お前もそう思わないか?」

水を向けられた壮士は数瞬のあいだ沈黙して、それから「なるほど」と呟き、

「思う」

ロバートの言う触りという言葉は、彼がしばしば好んで使う独特な表現だ。
意味するところは様々で、分かりやすい言葉に置き換えると『空気が読める』だとか『勘が鋭い』だとか『呼吸を図れる』、あるいは『状況分析』に『未来予測』などが適当だろうか。
それらの危機回避に繋がる感性や感覚を、ロバートはグルっとまとめて“触り”と表現するのだ。

壮士はこれまでの記憶を掘り返すように、コツコツと自らの頭を指で小突きつつ、

「琴子を見てて時々思うんだけど、『ああ、こういうことがしたいんだな』って感じることがあるんだよな。でも頭でイメージしてることに身体がついていかない。だから失敗する、みたいな」
「俺もソージと同じ意見だ」
「はあ……」

そう二人から告げられても、琴子は分かったような分からいような曖昧な声を漏らすだけだ。
この辺りについてはさしもの琴子も門外漢。今ひとつピンとこないのかもしれない。

「たとえそうだったとしても、結局失敗するのですから駄目ではないですか」

琴子のそれを受け、ロバートは「まあ待て」と手で制しつつ、

「ところでソージ」
「ん?」
「お前、コトコのタックルを避けられなかったよな? ヨワヨワなコトコのタックルなのにだ」
「いや、そんなこと言われても……。あれって完全に不意打ちだろう? 琴子のこと警戒する状況でもなかったんだし、ヨワヨワとか関係なく避けられねえよ」

壮士にしてみれば、ロバートの指摘は難癖に近いものだ。

あの時の壮士は奈津と対峙していた。
不意打ちであったことはさておき、他から襲われる可能性を意識する状況ではなかったのだ。まして琴子は警戒する対象ではない。
あれを避ける為には24時間365日、あらゆる人から襲われる可能性を警戒せねばならないだろう。
たとえるなら、実家で飯を食っている最中に突然親から襲いかかられる可能性を考慮しろと言われているようなものだ。

「聞いたか? コトコ」
「ええ、ロブの考えていることがだいたい分かりました」
「? 考えてることって?」

ニヤリと笑ったロバートに対して、両名が示した反応は二者二様。

「やっぱりコトコは触りがいいな、と確認できたところで、そろそろプランの話をしようか」

琴子は弱い。成長もほとんど期待できない。けれど触りはいい。
直接戦闘を最終手段とし、安全確保を最優先する。
戦闘行為は一方的に制圧可能な環境を作ってから。

これまで話したそれらを、ロバートは再度壮士と琴子に話して聞かせて、

「ソージはコトコの不意打ちを避けられなかった。でもそんなことは当たり前のことだろう? ヒトってのは意識してない攻撃は避けられないんだ。条件さえ整えればソージだろうと俺だろうと、弱っちいコトコにだって殺られちまうよ。背中からズブリ、それでしまいだ。ナイフ一本ありゃ事足りる。で、お前らが目指すべきは、そんな感じにコッチが一方的に殺れる状況を作ることだ」
「ロブの言ってることは分かるよ? でも、ちょっと話が逸れてないか? いま話してんのは琴子をどうするかってことだろう?」
「逸れてないさ。あとコトコはどうもしない。今のまんまだ。というか、どうにもならないって言ってるじゃないか」
「それじゃ解決にならないじゃないか」
「そうでもないぞ。どうこうするのはコトコじゃない。お前だ、ソージ」
「おれ……?」
「つまりだな。一方的に殺れる状況を作れる可能性を上げるってことだ。そのためにお前たちに新しい約束事を設けることにした」
「約束事って?」

ロバートは首をひねる壮士を置き去りに、琴子へ目を向けると、

「コトコ。教えてやれ」
「お兄様には私が実現したいことを叶える手段――つまり私の暴力となっていただきます」
「それは……」

これまでの話と繋がっていることは理解できる。
琴子の武力向上が望めない以上、壮士が担保するというのは頷ける話だ。
しかし、

「いや、それってさ。琴子の指示に従って俺が殺るってことだろう? わざわざ言われなくたってハナから俺はそのつもりだぞ?」

改めて約束事とするまでもないことだ。
壮士は最初から琴子に参謀役を担ってもらうつもりでいた。
悪魔にもそう勧められていたし、壮士自身、その方が勝ちに繋がると考えていた。

琴子の頭脳で、壮士は暴力で。
そうして互いが持つ秀でた部分をうまく活かして補い合えばいいのだ。
だからもし意見が割れることがあっても、最終的に琴子の考えを容れるつもりでいた。

「違う、ソージ。ただ指示に従うんじゃない」
「? じゃあなんだよ」
「服従だ」

壮士は目を見張って黙り込んだ。

結論は同じだ。壮士は琴子の意向に沿って事を起こす。
だが、ただ従うのと服従とではそこへ至るまでのプロセスがかなり違う。

「いいか、ソージ。お前はコトコの指示に疑問を抱くな。考えるな。無条件でYESだ。
状況や相手なんてお構いなしに、殺せと言われたら殺せ。右の奴を撃てと言われたら躊躇わず撃て。左の奴を刺せと言われたら問答無用で刺せ。もし逃げると言われたら、とろいコトコが逃げられるまでの間、お前が体を張って時間を稼ぐんだ」

そう、服従とはそういうことなのだ。
意思決定における壮士の意思は、その一切が排除される。
感情を殺し、自我を凍らせ、さながらプログラムされたロボットのように、琴子に言われるがまま実行する。それが服従だ。

ロバートが続ける。

「自分に有利な状況を作るってのは口で言うほど簡単じゃない。相手の人数、周囲の環境、時間、作るまでの経過予測、そんな色んなことを総合的に判断しないといけないからな。
コトコはどうしようもなく弱っちいが、その手の見切りがピカイチだ。お前よりも色んなことを深く考えてるし、判断も早い。でもコトコにはそれを実現させる力がないんだ。そこをお前がフォローしてやれ」

結局これも確度の話だ。
何かしらの判断が必要となった場面に於いて、壮士と琴子、どちらの判断が優れているか。
琴子の方がより優れている可能性が高いというのがロバートの結論だ。

同時にもう一点。この約束事は消極策でもあるということ。
残念ながら琴子の武力向上は望めない。故に判断する際、『いかにして琴子を殺らせないか』ということも重要な判断要素となる。ロバートが指摘したような琴子が近接戦、且つ一対一で臨まねばならないという状況を、可能な限り避けねばならないのだ。
反面、これも彼が指摘したように、条件さえ整えれば非力な琴子でも十分に殺れる余地はある。
それら一切を考慮した判断の正答性、及びその速度が、琴子の方がより優れている可能性が高い。だから壮士の意思は排除される。
これを徹底させるために、ロバートは服従を約束事とすると言っているのだろう。

一方で、

「……指示を待たなくてもいいよな?」

一瞬の判断が求められる局面もあるだろう。
琴子が常に指示を出せる状況にあると想定するのも危険だ。

「もちろんだ。そういう時はお前の判断で動け。荒事の経験値はソージの方が上なんだ。勘で動いたのが上手い方に転がった――なんてこともままあることだからな」
「私は反対です」

ずっと黙っていた琴子が話に割って入った。

「もし私が誤った判断を下せば、お兄様まで危険に晒すやもしれません。実力も経験もお兄様の方が上なのです。約束事になどせず柔軟に対応するか、あるいはお兄様主体で動く方が良いと思います」

眉をしかめながら言う琴子の気持ちはわからないでもない。
だが、

「俺はそれでいいよ」
「お兄様……」
「俺と琴子、二人分の命を背負うってことだもんな。重いって感じるのはよく分かる。でもさ、このゲームが危険なのは最初から分かっていたことだろう?」
「無論承知しています。私はただ、決まりごとにするのは良くないことだと言っているだけです」
「それでいいじゃないか。俺らは一蓮托生なんだ。琴子を信頼してる、心から」

言って、ニヤリと笑う壮士。
それを受け、琴子は嬉しそうに微笑んで、けれども大きな溜息をつき、

「本当に仕方のないひと……」
「手間のかかる兄候補ですまんな」
「そう思われるなら“候補”を取っていただきたいのですが」
「それはまだ無理だ」
「いじわる」

唇を尖らせた琴子に壮士は喉を鳴らし、それから真剣な顔を作って、

「一つ約束してくれ」
「なんなりと」
「もし、どちらか一人しかって状況になったら……」
「その時は私が生き残れと?」
「いや、お前を選べとは言わない。勝てる確度が高い方を残してくれ。俺たちの目的は勝つことだからな」

瞬間、琴子は満足そうに微笑んで、

「承りました」

と、そこで、空気を切り替えるような柏手がひとつ。

「よし、話がまとまったようだし、ハナシはしまいだ。ソージ、飲みに行こうぜ」
「……またですか?」

壮士が答える前に口を開いたのは琴子だ。

「ここのところ毎日ではありませんか。夜な夜なお兄様を連れ出すのはやめてください」

そうたしなめる琴子の言い分は至極もっともで。
壮士はここ一週間ほどロバートに連れられて飲みに行くのが定例化してしまっていた。
もっとも、当の壮士は結構イケる口ということもあってぜんぜん嫌がっていない。
むしろ日中の疲れを癒やす貴重な時間となっていた。

「コトコ……。野暮なことを言うなよ。酒は男の癒やしだぞ?」
「飲むなと申しているのではありません。行きすぎだと申しているのです」

そんな野郎どもの価値観に理解は示しても、それが毎日となれば、流石の琴子もいい気がしないらしい。
続けざまに琴子はズビシとキッチンを指し示し、

「だいたい、わざわざ外に飲みに行かずとも、お酒ならここにたくさんあるでしょう?」

これも琴子の言うとおり。
流石に円成寺の別荘というべきか、ここには多種多様な酒が用意されている。
専用のワインセラーまであるぐらいの充実ぶりだ。

なのだが、やはり野郎どもには一応の言い分もあって、

「そりゃそうなんだけどさ。酒ってのは場の空気も一緒に楽しむもんだから……」
「お兄様はどちらの味方なのですか! 私はお兄様のお体を心配して申し上げているのですよっ!?」

一瞬にして矛先がこちらに向いた。

壮士はウっと喉をつまらせ『なんとかしろよ』とロバートに目配せ。
それを受け、ロバートは面倒くさそうにスキンヘッドをぺちぺちと叩いて、

「コトコ。今日はスペシャルだから見逃してくれ」
「スペシャル? というと?」
「あれだ、イアンだよ、イアン」
「あれ? そっち系の店なの?」

先ほどのお返しとばかりに琴子に先んじて反応する壮士である。
慰安とは慰みをして心を休ませること、それ即ち、

「お前、しばらくオンナ抱いてないだろう? ミシェル似の美人だぞ?」
「マジでっ!?」

普段から目の保養とさせていただいている医学講師のミシェルさん。
彼女似であれば美人かつ素晴らしいプロポーションをお持ちのはず。
外国人の方とお手合わせいただいた経験もないので非常に興味深い。

そんな感じに色々と妄想を膨らませ始めた壮士の一方で――、

「そういうことであれば尚のこと見過ごせません」

言って立ち上がり、琴子は侮蔑の視線をロバートに向ける。

「お兄様には婚約者がいらっしゃるのですよ? 私もその方を存じております。いいえ、ただ知っているだけではありません。穂乃佳様は将来私のお義姉様となられる方なのです。だのに他所の女を抱くなど甚だしい不貞行為、容認できるものではありません。
そも義妹たる私がお止めしなかったとなれば、穂乃佳様へどう申し開きすれば良いというのですか。義妹としてお義姉様が傷つかれるのを座視できかねます」

スラスラと非難の言葉を吐き続ける琴子の反応など折込済みなのだろう。
ロバートはことさら悲しげな目を琴子に向けて、

「コトコはソージが可哀想だと思わないのか?」
「え……?」
「お前のハナシじゃ……なんだ、カミのゲームだったか? そこでヤリまくったそうじゃないか」
「それが? お兄様の不貞行為とは関係ない話です」
「いいや、ある。ヤリ続けるってのは大変だ。ソージの兄貴は大変だったと思うよ? でもな、コトコ。オトコってもんはずっとヤラないでいるのも、それはもう苦痛に感じる生き物なんだ」
「そうなのですか?」
「そうなんだよ。まあ、コトコの言い分はわかる。でもそのフィアンセちゃんはここに居ないだろう? だからソージは仕方なく毎日毎日マスかいて我慢してんだ。同じ男として見ていられないよ。可哀想だ」
「あの……、申し訳ありません。よく知らないのですが、マスとは?」
「自分でチンコしごいてセーシ吐き出す行為だ」
「ああ、マスターベーションの略ですか。オナニーという言葉は一馬様に教えていただいたのですが、マスは知りませんでした」
「コトコは性にオープンだな。ちなみにオトコのマスってのはとてつもない虚しさを伴うんだ。知ってたか?」
「もうやめてくれッ……!」

ソファーを殴りつけながら荒ぶる壮士である。

このアホ二人は真剣な顔してなんの話をしてるのか。というより、どうしてこんな辱めを受けねばならない。
もちろん壮士だって健康な成年男子なのだから、抱ける女がいなければセンズリぐらいする。
するが、それをどうして琴子にカミングアウトしないといけない。とばっちりもいいところだ。

「わかりました。お兄様は日々虚しい思いをされていたということなのですね……」

間違ってはいないけれど、そんな悲しい顔して「虚しい」とか言わないでほしい。
あと毎日はしていない。

ロバートは笑いを噛み殺しつつクロージングに入る。

「ダメだってんなら、今すぐそのフィアンセちゃんを連れてこい。それともなにか? コトコが抜いてやるってか?」
「私のすべては一馬様のものです」

相も変わらず恥じらうことなく一馬への愛を告白する琴子である。
琴子はしかし、暫しの沈黙のあと顎に手を添えて、

「いえ、安易に結論付けるのは良くないですね。相手はお兄様なのですし、手で抜いて差し上げるぐらいできなくは……。でもいかに身内同然の間柄とはいえ、一馬様以外のオチンチンに触れるのは一般的に浮気とみなされる……かも?」
「いらんわッ!」

一般的にもクソも、そもそも身内の間柄で手コキなどしない。
やはりというべきか、性方面における琴子の常識はかなりおかしなことになっていた。

「なれどお兄様? 穂乃佳様とて一馬様となされたのですし」
「あ、その話はやめてくれ……。ホント、マジでへこむから……」

悪魔と共に一部始終を見ていた壮士は当然穂乃佳と一馬の行為も見ている。
どっちのことも責めようとは思わない。あれはやむを得ないことだったし、穂乃佳の気持ちは少しも動いていなかった。
しかし、幼馴染で恋人で婚約者の穂乃佳が、実の兄の一馬に抱かれるシチュエーション。鉄板の寝取られシチュだ。
かの一件は、壮士のメンタルに甚大なダメージを与えていたのだ。

「琴子、お前……んなキョトンとした顔で言ってるけどさ。兄貴が心や美月ちゃんとかとヤッてるの見てなんとも思わないの?」
「? 特になにも?」
「コイツ駄目だ……。じゃあ、アレだ。兄貴がなっちゃんとヤッてるのならどうだ?」

すると、みるみると琴子の顔が歪んでゆき、

「……いい気はしませんね」
「やっとわかってくれたか」

と、そこで色気もなんにもない電子音が鳴った。
音源はテーブルに置いていた琴子のガラケーで、

「なっちゃんから?」
「です。日本に着いたみたいですね」

琴子が通話ボタンを押した瞬間、ロバートがちょいちょいと服をつかんできて、

「ソージ、今の内だ。コトコなんて放っておいて行こう」
「う、う~ん……」
「お前もオンナ抱きたいだろ?」
「そりゃ俺も男なんだし、普通にヤりたいけどさ」
「なんだ、フィアンセちゃんにミサオ立ててんのか?」
「いや、そんなんじゃないけど、俺たちの状況って特殊だからなあ……」

別に壮士は穂乃佳と付き合いながら風俗に行ったこともあるし、その辺りの感覚は世の男性陣と大して変わらない。
ただ今は穂乃佳への罪悪感というより、どうしても『そんなことしていいのだろうか』という自罰的な想いを抱いてしまうのだ。
たくさんの人が辛い目に遭い、多くの人が殺された。そこには壮士自身が犯した罪も含まれている。
その辺りのことは、きっとロバートには理解できないだろうし、察してくれというのも無理な話だろう。
彼はただ善意で気を利かせてくれただけなのだ。

そんなことを考えている内に、琴子の話し声が耳に引っかかった。

「わかりました。ではその件は明日中に処理してください」
「なあ、琴子」
「奈津、ちょっと待ってください。なんでしょう、お兄様」
「いま頼んだ仕事って急ぎなの?」
「? いいえ、必ず明日中にという質の仕事ではありませんが、それが?」
「だったらさ、一日二日、なっちゃんに休みあげられないかな」
「別に構いませんが、どうして急にそんなことを?」
「ほら、なっちゃんってずっと琴子や俺につきっきりだろ? たまには休ませてあげたいなって」
「……なんだか円成寺がブラック企業のような物言いですね。適切なローテーションを組んで、奈津は勿論、他の従業員たちにも十分な休暇を与えています」
「わかってるよ。ただグアムに来てからは本当につきっきりだったし、休みにしてもグアムでの休みじゃないか。一ヶ月ぶりの日本なんだ。実家でゆっくりさせてやるなりなんなりさせてやれないか?」

そういうことなら、と琴子は頷いて、奈津へスケジュール変更の指示を始めた。
会話の詳細はよくわからないが、聞いている限り、奈津は遠慮しているようで、

「いいから。せっかくのお兄様のご厚意です。久しぶりに綾部のご両親に顔を見せてあげなさい。それはそれとして奈津? ちょっと相談したいことがあるのですが――」

琴子の何気ない一言から、会話の潮目が一気に変わってしまう。

「お兄様が風俗? に行きたいとおっしゃるのですが、奈津はどう思いますか? 私は穂乃佳様の手前あまり気が進まないのですが、ロブが言うには毎日オナニーばかりさせるのは可哀想だと。あまり溜め込むのもストレスになるようですし……」

止める暇さえなく、無自覚な琴子によって壮士の恥部が巻き散らかされてゆく。

「オナニーですか? ええ、毎日みたいです」
「お、おい……。お前、なっちゃんになに話してんだよ……」
「おいおい、ソージ! ナツにマスかきまくってるのバレちまったぞ! どうすんだ!? なあ、なあ?」

焦る壮士。腹を抱えて笑うロバート。
そんな二人に琴子は不思議そうに首を傾けて、

「はい、はい……。え? オナホを買い与えてやれば十分? ですか? そのオナホというものはどういう物なのでしょう。グアムに売っていればいいのですが……。ああ、奈津が手配してくれるのですか。手間を掛けます。ええ、それではまた」

琴子はパチンと二つ折りのガラケーを閉じて、

「奈津がオナホをたくさん用意してくれるそうです」
「お前はなんてことしてくれたんだッ!」

容易に想像できる。
あの真っ平らな顔で『オナニー野郎』だとか、『具合はどうでしたか?』だとか、なっちゃんにからかわれるに違いない。

「えっと……。オナホでは駄目なのですか?」
「駄目じゃないけどッ! アレはアレでいいものだけどッ!」
「良いものならなにが問題なので?」

はて? と首をひねる琴子。

「ぐぐぐっ……」

違う。ぜんぜん分かってない。壮士はハナっからオナホの話なんてしていないのだ。
この自称妹さん。世間知らずであることに加えてエロの倫理観がひん曲がっているせいか、本来とても賢い子なのに、この手の話題に限ってはやたらと察しが悪い。

「うん、もういいや……。ロブ、行こうか」
「ん? いいのか?」
「いいんだよ。なんかもう悪い意味で吹っ切れた。酒のんで女抱いて遊んだるわ」

言って、壮士は色んな物を振り切るように勢い良く立ち上がる。
そうして踵をかえしたところで「お待ちください」という静かな声。

「んだよ……、いまさら止めても無駄だぞ?」
「いいえ、どうしてもというならお止めしません。なれど行かれるならば、奈津からの伝言をお伝えしておかねばなりません」
「なっちゃん、なんだって?」
「『どうぞ楽しんできてください。穂乃佳様には私から然るべき時期にご報告差し上げます。琴子は忘れてしまうでしょうが、私と壮君はちゃんと覚えていますからね。あしからず。あとア○ゾンで★5のオナホを見繕っておきます』だそうです」
「お、おのれ、なっちゃんめッ……!」

なっちゃんの脅しを受け、吹っ切れた何かは元通りに。
壮士の懊悩は暫く続いたのだった。

◆◇◆

同時刻。日本――。

「まったく……。あのお馬鹿さんたちはなんの話をしてるんだか」

奈津は呆れたようにそう呟いて、スマホをポシェットに戻した。

空を飛ぶこと四時間弱。奈津は一ヶ月ぶりに日本の地に立っていた。
常夏のグアムと違い、師走の日本は冬の真っ只中。
間もなく夜になろうかという空港には人がまばらで。そのせいだろうか気温以上に寒々しく感じてしまう。

「お休みなんて。別にいいのに」

壮士が余計な気を回してくれたせいで丸二日も予定が空いてしまった。
正直やりたいことなんて何もない。
実家に帰えれば父や母は喜んでくれるだろうが、正直あまり気乗りしなかった。

日々与えられた仕事をこなし、琴子を見守り、役目を果たす。
それだけで良かった。それだけしか知らない。
でも――、

「壮君のおせっかい」

彼の気遣いに悪い気はしなかった。
ありがた迷惑も、おせっかいも、悪くない。

「ま、いいか。お父さんとお母さんに顔をみせてブラブラしよう」

そんな感じに方針を決めて、奈津は小さなキャリーバッグに手をかけた。

今から向かえば夕食に間に合うかもしれない。
一度決めてしまえば、それも悪くないかと思えた。

奈津はほんの少し歩みの速度を上げて、ターミナルの自動ドアを抜けた。

――抜けた先には灰色が広がっていた。

「――――――――」

絶句する他なかった。

部屋だ。

広さは目算で十畳ほど。四方がコンクリートの打ちっぱなしの壁で囲われていて、壁際にキングサイズのベッドと一組のソファセット、それに大きな真っ黒のボックスがある。
壁面にクローゼットとおもいしき家具が備え付けられていて、別の壁に扉が合計三枚。
窓は一つも見当たらない。しかし照明は十分で明るい。
そこそこ小奇麗なホテルの客室と形容できなくもないその部屋を――、綾部奈津は知っている。

「まさか……」

慌てて振り返った先にあったのは灰色の壁のみ。通り抜けたはずの自動ドアなどありはしない。
直前の記憶と一致したのは、肉体、服、靴、そして手に持っていたキャリーバッグだけだった。

奈津は覚束ない足取りでベッドに向かうと、崩れるように腰を下ろした。
それから手で顔を覆い、「落ち着け、考えろ」と念仏のように繰り返し唱えた。

一分か、あるいは二分か。
一切の音が消失した空白を過ごし、

「私になにか用ですか?」

その問いはこの空間の創造主に宛てたもの。
しかし、待てど暮らせど答えが返ってくることはなかった。

奈津は早々に見切りをつけ、キャリーバッグに手を掛けた。

「あった……」

そこから取り出したのは一本の折りたたみナイフ。
それをスカートのポケットにしまい、続けて奈津は使えそうな物を見繕って部屋の各所に忍ばせた。
ひとしきりの作業を終え、奈津が次に向かったのは洗面所だ。

「たぶん、今は“まだ始まっていない”はず」

蛇口をひねり、震える手で水をすくう。
奈津は緊張にコクリと喉を鳴らし、それから意を決して水を口に含んだ。

「……やっぱり大丈夫」

そう独りごちて、奈津は飲めるだけの水を飲み続ける。
まだ半信半疑だ。けれど、もしそうであるなら、今しかできないことがある。

限界までたっぷりと水を飲み終えた奈津は、恐らく廊下に続いているであろうドアに向かった。
最大限の警戒感を張り巡らせ、ゆっくりとノブをひねってゆく。

「…………」

予想通り、ドアの先に広がっていたのは五十メートルを越えようかという長い廊下。
壁は部屋と同じコンクリート製。そこに十数枚の赤い扉が見えた。

奈津は細心の注意を払いながら廊下を進む。
そうして勝手知ったる足取りでT字路を曲がり、豪奢な意匠の扉に手を掛けた。

果たしてその先には――、

「誰だッ!?」
「…………っ」

だだっ広い空間に一組の男女がいた。
奈津は一瞬だけ目を見張り、しかし直ぐに二人のことを捨て置いて空間の四隅に目を走らせた。

何も映っていない二台のモニター。天まで続く一枚ばりのガラス板。
大きなソファセットが二つ。他に二枚の扉。

どうか夢であってくれ――。
そう願いながら確かめたそれらは、どれもこれも記憶と一致するものだった。

奈津は最早結論するしかなかった。

「間違いない。神様のゲームだ」

◆◇◆

さらに同時刻――。

ヒビ割れた大地。灰色の空。
生命の一切を拒絶するかのような不毛の大地に、一人の老人が立っていた。

「カカ……、これはこれは」

悪魔は顎に蓄えた白い髭を撫でつけながら、声に愉悦を乗せて嗤う。

彼の眼の前には映像が映し出されていた。
広い部屋で立ちすくむ奈津。緊張の面持ちの女。女を庇うように前に出る男。

悪魔はそれらを興味深そうに眺めつつ、

「奈津嬢の取り込みか、あるいは琴子嬢への人質か、はたまた壮士殿の切り崩しか……」

言葉の内容とは裏腹に、老人の独り言には喜びが満ち満ちていた。

「神《きゃつ》め、こちらを出し抜き先手を打ったつもりでしょうが――、甘い」

そうして悪魔は再び喉を鳴らす。

「阿呆《あほう》が、餌に食いつきおったわ」

神と悪魔の化かし合いは既に始まっていたのだ。

クロ

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