悪魔の章 009.ポンコツ琴子

グアムにおける、桐山壮士の日常はこうして過ぎてゆく。

毎朝午前6時に起床。玄関で琴子と落ち合い、スローペースで1時間ほどランニングする。帰ってきたらシャワーを浴びて朝食へ。
ここでの食事は円成寺のスタッフが用意してくれる。
琴子曰く栄養士が監修した特別メニューとのことで、こちらの普段の食生活に配慮してくれたのか、出てくるメニューはありきたりな日本食が中心。もちろん味は抜群だ。
ただ朝食だけは、琴子となっちゃんが手ずから用意してくれる。
どうして朝食だけそうなのか尋ねたことがある。
すると琴子はニッコリと微笑むだけで、かたや奈津はというと相変わらずののっぺら坊。理由を教える気はないようだ。
なので壮士は『俺のために作ってくれてるんだろう』とポジティブに解釈して、食べたあと必ず二人に礼を言うことにしている。
琴子は『お粗末様でした』と微笑みかけてくれるが、なっちゃんは『崇め奉ってください』と尊大な態度。クーデレは面倒だ。いや、1ミリもデレていないのだろうが。

ともあれ飯は旨いし、ベッドメイキングも完璧。ここでの生活は快適そのもの。
反面、これだけ高待遇を受けてしまうと心苦しくなる。ここでの滞在費はとんでもない額が投じられているに違いない。
何か返したくとも、壮士の持つ小銭なんぞ琴子は受け取ってくれないだろうし、じっさい一度申し出てみたが断られた。
ちなみにその時『どうしてもと仰るなら私を妹に!』なんて、ピントのズレた答えが返ってきたのでスルーした。
色々と考えた結果、スタッフの皆さんの手伝いをすることにした。
といっても荷物運びや掃除の手伝いが中心で、彼らの邪魔にならないよう気をつけている。
ゲストに手伝わせるなど、彼らにすればありがた迷惑に違いない。事実、最初の頃は随分と戸惑わせてしまったものだ。
しかしそれも過去の話。今では皆と談笑するぐらいに打ち解けたし、庭師の大西のおっちゃんなんかとは将棋をさす間柄だ。
そんな壮士の様子を、琴子は嬉しそうに眺めるだけで止めようとはしなかった。
彼らと懇意となることが、将来記憶を奪われてしまう琴子のためになる。そんなこちらの思いに気づいたのだろう。
もっとも、なっちゃんには『アリのように働きなさい、壮君野郎』とこき使われているのだが。

朝食を終えると午前の部。主に身体を用いたトレーニングが始まる。

銃器刃物の取り扱いから筋力トレーニング、体術に組手、状況を想定してのシミュレーション等、ロバートに師事して実践的な技能を身につけてゆく。
午前を一言で表現すると、散々に打ちのめされる時間と言ってしまっていいだろう。
海兵《マリーン》式じゃない――、いかついスキンヘッドが言ったあれは嘘っぱちだったと壮士は思っている。
突然砂浜に連れてこられたかと思ったら『俺がいいと言うまで匍匐前進《ほふくぜんしん》しろ』だとか、『注意力を鍛えるため』とか言って飯の最中に襲ってきたりと。
こんな事は一例に過ぎず、ロバートの要求はキツイ以上に理不尽なモノが多い。
こっちが滝のように汗を流しているなか、あのハゲは日陰に陣取り、ビール(なっちゃんに用意してもらった)を片手に『近頃の若者は根性ないな』とか煽ってくるのでタチが悪い。
勿論、かの有名な軍曹殿に比べれば随分と優しい教官に違いないが、とにかくやり口がいやらしい。ときどき殺意を覚えるぐらいだ。
壮士はしかし、ある日を境に『これも精神修行』と自分に言い聞かせることにした。
一度我慢できずにハゲ呼ばわりしたら血だるまにされた。
悲しいかな、人とは痛みを通じて学習する生き物なのだ。

午後は座学に費やされることが多い。

正直苦手な分野ではあるが、楽しんで取り組めている授業もある。銃の分解・組立やハンドサイン、サバイバル関連などがそれで、どれも男の嗜好心をくすぐるモノだ。
問題なのは純粋な座学――医療関係や心理学。こちらは覚えることが多いし聞き慣れない言葉が多いしでかなり苦戦している。
もっともこの辺りについては、超を付けていいぐらい妹様が優秀だ。
一度教わったことはまず忘れないし、自ら質問して貪欲に知識を吸収してゆく。時には仮想状況を設定して、どう対処するのが最適解か講師とディスカッションするぐらいだ。
琴子は学んだ知識を単なる教養で終わらせない。知恵にまで昇華させる。頼もしい限りだ。
ちなみに座学については、内容に合わせてロバート以外の人がアサインされる。
医師のミシェルさんは美人かつ素晴らしいプロポーションをお持ちで、大いに目の保養とさせてもらっている。

他にも様々な取り組みが行われる。
たとえばゲーム。ここで言うゲームとはビデオゲームを指すものではない。トランプを用いたカードゲームやテーブルゲームのたぐいだ。
ポーカー・ブラックジャック等は悪魔のゲームで用いられる可能性があるし、それでなくともゲームというものは総じて駆け引きを必要とする物が多い。
洞察力を鍛え、駆け引きの経験を積み、嘘を見抜く力を養う。これらはすべて琴子の提案だ。

そんなこんなで、壮士は毎日毎日あせ水たらして人を殺す練習をしている。
やっていることはひどく不健全だ。しかし充実した日々がそこにはあった。

◆◇◆

そんな生活が一ヶ月を数えたある日のこと、壮士は一つの結論を下そうとしていた。

「なあ、ロブ」

別荘の向かいに設置されたグラウンド。
大西のおっちゃんに整えられた天然芝が南国の太陽に照らされキラキラと輝いている。

「あとにしろ」

こちらに目を向けることなく答えるロバート。
彼のスキンヘッドも芝に負けないぐらい輝いていた。

腕組みして彼らが眺めていたのは、グラウンドの中央で対峙する二人の女の子。

「っ………」

ちっこい方の女の子、琴子は汗濡れの髪を頬に貼り付け、相手を誘うようにゴムナイフを揺らす。
どっしりと落とした腰に半身の体勢。
彼女の構えはロバートの教えを忠実に守っており、隙らしい隙が見当たらない。

「…………」

一方、それを迎え撃つ中くらいの女の子、奈津は琴子のそれに反して自然体。
同じくゴムナイフを持っているものの、重力に任せるまま両腕を落とし静態している。
ぶっちゃけ隙だらけだ。どうやらこちらはロバートの教えを実践する気がないらしい。
しかし、持ち前の平らな表情も合わさり雰囲気は十分。不思議とその道の達人を思わせる。

そんな奈津を睨みつけ、琴子は頬を伝う汗をベロリと舐め取る。
それからジリジリとすり足で間合い詰め――、

「ヤァッ――!」

意識して最小の動きとしたであろう琴子のタックル。
が、奈津は測ったかのように軽くバックステップして回避せしめる。
目論見を外され地に手をつく琴子。瞬間、奈津は歯を見せて嗤い足を持ち上げて、

「へぶっ!」

踏みつけ一閃。奈津はそこで終わらず、ガスガスと遠慮の欠片もないストンピング。

「まだま――ぎゃッ! げふっ!」

起き上がろうとする度に踏みつけられ、琴子は「まだまだ」というセリフすら吐かせてもらえず、地べたに釘付けにされてしまう。
奈津はひとしきりストンピングすると、今度はぐりぐりと足の裏で琴子を踏みつけて、

「まだやりますか?」
「くっ……、当たり前です!」

物凄く気持ちよさそうな顔のなっちゃんに、お手本のようなクッころ顔で応じる琴子。
もう何度見たか分からない光景に、壮士は深々とため息ひとつ。

「なあ、ロブ。あいつポンコツ過ぎないか?」

壮士はようやく結論した。
琴子は運動音痴を越えたポンコツであると。

たとえば朝のランニング。琴子はたったの二分で周回遅れ。壮士が息一つ乱してない段階で彼女は既に虫の息だ。
ウエイトトレーニングなんてしようものなら丸一日筋肉痛で動けなくなってしまう。
体術組手も毎度こんな感じで、壮士は当然として、奈津が相手であってもカスリもしない。
別に奈津はロバートの教えを実践する気がないわけではない。単に構える必要が無いだけなのだ。

なら体を用いること以外であれば人並みかというと、ぜんぜんそんな事はない。
射撃だって壊滅的だ。何度試そうがマズルジャンプを抑えられず、5メートル先の標的の命中率は多く見積もって5割。
無論この5割はどこかに当たるという程度のものであり、狙った箇所に命中する数字ではない。10メートル先なんて論外だ。まず当たらない。

「ソージ……。コトコが一生懸命努力してるのはお前も分かってるだろう?」
「もちろん分かってるさ。琴子はよくやってると思うよ、本当に」

一番近くで見てきた。琴子はあらゆる物事に対して懸命に取り組んでいる。
反面、プライドの高い彼女のことだ。内心では不出来な自分に歯噛みしているだろう。
それでも琴子は落ち込んだりしない。歯を食いしばって毎日ヘトヘトになるまで努力している。
失った人達を取り戻したいからだ。そんな彼女の姿勢を誰が否定できようか。

しかし、しかしだ。

「でもさ、もう一ヶ月だぞ? なのに上手くなる気配が一切ない」
「…………」

資質がどうであれ、人とは鍛錬を積むことで多少なりとも成長する生き物だ。
なのに琴子はいつまで経っても体力・技術ともに凡以下。たぶん小学生並の戦闘力だ。

「期待してたわけじゃないけど、流石にここまでとはなあ……」

元より壮士は琴子の腕っぷしなど当てにしていないし、あまり運動のできるタイプじゃないだろうとも思っていた。そんなことはひと目見れば分かることだ。
だから壮士は待った。「いやいや、まさか」と思いながら一ヶ月も待った。
しかし、これだけの時間を費やしてのゼロ成長。百歩譲ってナノ成長。
もはや結論するしかない。琴子はたぐいまれなるポンコツなのだ。

「というわけで、お師匠様がどう考えているのか率直なところを聞きたい」
「なんだ、俺の教え方が悪いとでも言いたいのか?」

ロバートは心外だとばかりに首を振ると、「いいか、ソージ」とこちらを指差し、

「お前の言う通り、コトコのあれは……なんだ、てん……、てん……」
「てん?」
「ホラ、日本語で言うところのアレだよ、てんなんとか」
「天賦の才?」
「それだ、テンプの才」
「難しい日本語知ってるな……」
「つまりだな、アイツはママの腹んなかにいた頃からゴミだったんだ」
「俺はそこまで言ってねえよ!」

ハゲの下した評価は壮士以上に低かった。
さしもの壮士も産まれる前からデバフ状態だったと言うつもりはない。

「ポンコツもゴミも大して違わないだろう? 考えてもみろ、ゴミをどれだけ磨いてもゴミのままだ。だから俺の教え方が悪いんじゃない。アイツを強くできる奴なんてこの世に存在しないんだ」
「ひでえ……」

琴子が聞いたら泣いてしまう。
もっとも彼女の場合、悲しいからではなく悔しくて泣くのだろうが。

「ぐっ……!」

そんなことを話している内にまた琴子が転がされた。
けれど直ぐに立ち上がった彼女から意気の陰りは感じない。

ロバートは頬に苦笑を刻みつつ、琴子と奈津を見やり、

「コトコの根性は認めるが、ナツを相棒にした方がいいのかもしれないな」

そんなロバート言葉に同意できるが故に、壮士は返す言葉を見つけられなかった。

実のところ、将来無駄にならないだろうという琴子の勧めで、奈津もロバートの指導を受けている。
そうして初めて分かったことがある。奈津は文武両面に於いて優秀だ。
初めて彼女と手合わせした際、舐めてかかった壮士は痛い目に遭った。
もちろん痛い目といっても一発・二発イイノをもらった程度に過ぎないし、所詮は女の子。壮士の相手ではない。
が、その一発・二発が命取りとなりかねないのが殺し合いだ。奈津に刃物を持たせれば、壮士をしても無傷で組み伏せるのは困難だろう。そのくらい彼女の動きは鋭い。
頭の出来についても、流石に琴子と同レベルとは言えないが、壮士なんて比較にならないくらい優秀だ。ゲームのたぐいも負けることが多い。ぶっちゃけあのポーカーフェイスは卑怯だと思う。

敢えて悪い言い方をすれば中庸。しかし、多方面に渡って高い能力を示すなっちゃん。
そんな彼女が有能な人材であることは認める。認めるが、

「俺の相棒は琴子だけだ。アイツの代わりなんてどこにも居ねえよ」
「熱いねえ」

口笛を吹いてロバートがニヤリと笑うと、壮士はムッとした顔を作り、

「茶化すなよ。命に関わることなんだぞ?」
「わかってるよ。アクマのゲームだろう?」
「ああ」

二つ返事で肯定した壮士に「アクマなあ」といぶかしげに呟くロバート。
聞くところによると、琴子は今回のオファーをするにあたってロバートに一通りの事実関係を話したらしく。

「まあ、アクマだろうが、カミだろうがなんだっていいがな」

けれど、彼はまったく信じていない。
正確には興味が無いといった感じだろうか。ギャランティに応じた仕事をするだけだ、そう初日に言われてからというもの、壮士は進んでこの手の話を口にしないようにしている。
別に信じてほしい訳ではないし、仮に信じてもらったところで何がどうなる事でもないのだから。

「とにかく対策を聞きたい。もちろん考えてあるんだよな?」
「いいや、ノープランだ」
「マジかよ……」
「そんなガッカリ顔されてもなあ。無理なもんは無理だ」
「そう言わずにさ……、なんかあんだろう?」
「ない。言っただろう? ゴミをダイヤモンドにする方法なんて知らないんだ」

頼みの綱のお師匠様も琴子のポンコツぶりにはお手上げの様子。
盛大に肩を落とした壮士に、ロバートは片眉を持ち上げて、

「大した問題じゃないだろ。コトコの面倒をみるのはソージの役目、予定通りじゃないか」
「いや、そりゃそうなんだけど。やっぱ心配なんだよ」

琴子を守るためなら盾役でも何でも引き受けるが、なにぶん壮士と琴子は別個のプレイヤーとして扱われてしまう。ゲームの内容いかんによっては彼女を守れぬ局面があってもおかしくない。
故に壮士としては、琴子にもうちょっと自力を付けて貰いたいというのが正直なところだ。

「諦めるんだな。コトコには頭の方で助けてもらえ」

言って、米国人らしく大仰に肩をすくめたロバートに、壮士は「Yes,Sir」と力なく回答。

「しゃーない、今後の成長に期待するしかないか」
「期待薄だと思うけどな。なにせテンプのゴミだ」
「そんな日本語ねえよ……」

ツッコミはともかくとして、ロバートの経験や能力は認めるところだ。
壮士自身、この一ヶ月で大きく成長させてもらったと実感している。
その彼が否と言うならどうしようもないのだろう。

「まあいいけど、琴子にはゴミ言うなよ?」
「言うわけないだろ。ギャラが貰えなくなったらどうする」
「守銭奴め」
「シュセンド……? 聞いたことない言葉だな。どういう意味だ」
「気にすんな」

内心、今後はハゲの知らない言葉でディスってやろうと誓う壮士である。

「お? 終わったみたいだぞ」

ロバートに促され目を向けると、汗を拭いながらこちらへ歩いてくるなっちゃんの姿。
彼女の肩越しに五体投地で突っ伏している琴子が見えた。

「ハァ……、ハァ……、うぅ……」

荒い息を吐く自称妹は、大きく背中を上下させるだけでピクリともしない。
ちいさなガソリンタンクが空っぽになってしまったのだろう。

壮士は苦笑しつつ、なっちゃんにスポーツドリンクを放り投げて、

「もうおしまいか?」
「楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものですね」

言って、難なく片手でペットボトルを受け取るなっちゃん。
どうやら彼女にとって琴子をやっつける時間は楽しいひと時らしい。

「わっるい顔してたもんな。もちっと手加減してやれよ」
「嫌です。ぜったい」

能面バッサリななっちゃん。
ハゲもこの子も、もう少し琴子に優しくしてやれないものか。

「なんか恨みでもあんの?」
「あるって最初から言ってるじゃないですか。私はずーっとあの子に振り回されてきたんです。なんでしたら一つ一つお聞かせしますけど?」
「遠慮しとくよ。姉妹喧嘩に巻き込まれたくないからな」

しかめっ面でそう言って、壮士はクーラーボックスに手を伸ばす。
正直自分の役回りじゃない気がするけれど、一人ぐらい琴子に優しい人がいてもいいだろう。

「いいよ、俺が行く」

と、ロバートがペットボトルを奪って琴子に向かって歩いてゆく。
頼むと答え、壮士は再度奈津へ目を向けて、

「でもまあ、早めにのびてくれて良かったかのもな。午後から日本に戻るんだろう?」
「はい。円成寺の家のことで色々と」

この日、奈津は一時帰国することになっていた。

実質的な円成寺の当主となった琴子。
担っている実務は未だ限定的とはいえ、立場上こなさねばならない案件は少なくない。
遠隔指示で済むものは琴子自身が、そうでないものは奈津が名代としてこなしているとのことだ。

そういう意味で、奈津の果たす役割は決して小さくないわけで、

「琴子の世話から家の仕事までだもんな。まったくなっちゃんはよく働くよ」
「だから踏みつけてるんです」
「なるほど。なら仕方ないか」

雇用者とは少なからず被雇用者から疎まれるものである。
なっちゃんの働きっぷりを思えば、ストンピングくらいはやむを得ないのかもしれない。
もっとも奈津のそれは、少々わかり辛い照れ隠しのようなものだろう。
彼女がどれだけ琴子を大切に思っているのか、初対面時のアレを振り返れば言わずもがなだ。

「(めんどくせえ性格してるよな)」
「はい?」
「いや、こっちのハナシだ」
「こっちの話ってことはないでしょう? 壮君ゲスい顔してました」
「この顔は生まれつきだ」
「生まれつきゲス顔なんて……、可哀想に」
「ほっとけ」

そう言った瞬間、奈津は見たことのない柔らかな微笑みを浮かべて――、

「でも、私は好きですよ? 壮君の顔」
「え……」
「嘘です」
「それは、あの、どういう……」
「だから嘘です」
「…………」
「好みじゃないです」
「くそっ! もてあそばれたッ!」
「もてあそんでやりました」
「ざけんな! やっとデレたと思ったんだぞ……!」
「このくらいの軽口スルーしてください。ほら、私って面倒な性格ですし?」
「……聞こえてたのか」

本当にこのクーデレめんどくさい。

「それで、壮君はどうしますか?」

奈津のそれは、壮士が共に帰国するかという意味だ。
グアムに滞在して一ヶ月あまり、壮士は一度も日本に戻っていない。
もちろん心配を掛けぬよう定期的に親へ連絡しているが、それろそろ顔を見せに帰ってはどうかと、琴子から勧められていたのだ。

「えっと、一週間だっけ?」
「ええ。多少前後するかもですけど、そのくらいを予定しています」
「顔見せだけで一週間ってのはなあ……」
「私を待たなくたって、壮君だけ先に戻ればいいじゃないですか」
「ああ、そっか。帰りは一緒じゃなくてもいいのか」
「行きも一緒じゃなくてもいいんですけどね」
「んだよ、俺と一緒は嫌ってか?」

別にそういう意味じゃ、と奈津は軽く肩をすくめて、

「まあ一緒に帰っても、どのみち日本では別行動になりますからね。暫くお別れなのは同じです」
「そりゃそうだろ。顔見せだけの俺と違って、なっちゃんは仕事で帰るんだし」
「私と会えなくなったら寂しいですか?」
「うん、寂しい」
「そうですか。私は寂しくないです」
「いちいちココロえぐりに来るのやめてもらえないかな……?」

照れくさいのを我慢して乗っかってやったのに、顔色一つ変えないなっちゃんである。
きっと「寂しくない」と答えようものなら、やれ「薄情だ」だの、「あれだけお世話したのに」だのと、難癖をつけられていたに違いないのだ。

ともあれ、壮士は暫く逡巡して、

「ま、今回はやめとくよ」
「そんなに私と一緒は嫌ですか?」

眉根を寄せた奈津に、壮士は「違う違う」と苦笑しつつ、

「なんというか、今が伸び盛りって気がするんだ。緊張感を切らせたくない」
「なら仕方ないですね」

言いながら奈津が振り返る――と、そこにはぺたん座りに水をあおる琴子の姿。
奈津はほんの少し目尻を下げて、

「少しの間、面倒をみてもらうようお願いします」

その声は本当に優しい響きを帯びていて。
故に壮士は「やっぱ好きなんじゃねえか」と口の中でだけ呟く。

「任せとけ。ちゃんと琴子の面倒はみてやるよ」
「? なに言ってるんですか、壮君の面倒をみるよう琴子にお願いするんですよ?」
「え、俺?」
「当たり前です。なんだか誤解しているようですけど、あの子は放っておいても何も問題ありません。なんだって一人でできちゃう子ですからね。立場上世話する人が周りにいるだけです」
「なんでもってことはないだろ。なっちゃん相手にボコボコにされてるし」

壮士の切り返しに、奈津は「あー……」と残念な顔になって、

「努力はしてるんですけどね……」
「そこは俺も認めてるぞ。琴子はがんばり屋さんだ」
「ですね。今はへなちょこですけどきっと克服します。……たぶん」
「そう願いたいところだけど、どうかなあ」
「どうでしょうね」

言って、壮士と奈津は互いを見やり苦笑い。
暫定兄と自称姉。肩書は違えど、出来の良い妹に抱く不安の種は同じらしい。

「それにしても、琴子に比べてなっちゃんの成長は目覚まし――って!」

突如繰り出された手刀。
壮士はすんでのところで奈津の手首を掴み、

「いきなりなにしやがる」
「……胸、見ながらいいましたね?」
「あァ?」
「なんです? 武術は上達しているのに、胸はちっとも成長しないとでも言いたいんですか?」
「被害妄想たくまし過ぎじゃね?」
「それともあれですか? 胸の大きさは琴子の圧勝だとでも言うつもりですか?」
「それに関しちゃ琴子の圧勝だ。負けを認めるんだな、ちっぱいお姉ちゃん」
「ちっぱくないです。私のは普通サイズです。あの子がおかしいんです」
「ウンウン。なっちゃんの手のひらサイズな乳もぜんぜんアリだと思うぞ」
「つまり、胸を見たことは認めると」
「ああ、見たさ。なにが悪い? んなもん男の習性だ」
「セクハラです」
「そう思うなら、いつも通りまずは謝罪を要求しろ。今回は応じる用意がある」
「謝罪なんて要りません――」

言うやいなや、今度は膝が飛んできた。
壮士はそれを腕でガードし、後ろへ飛んで距離を取る。

「――制裁します」

そう低い声で告げた奈津は、どっしりと腰を落としての臨戦態勢。
琴子を相手にしていた時と違って本気モードだ。

そんな彼女に、壮士は「キレんの早すぎだろ」と独りごちつつ、

「上等だ、コラ。やれるもんならやってみろ」

おおよそ社会人とは思えぬセリフを吐きながら構える壮士。
乳を見たのは事実だ。謝れというなら謝りもしよう。

「なんなら組み伏せて、その乳もみしだいたるわ」

が、決闘裁判がしたいと言うならウェルカムである。

「開き直りましたね、エロ壮君野郎」
「なんとでもいえ」

それが戦闘開始の合図。
腰の裏に右手を隠し、壮士を中心に円を描くように間合いを計る奈津。
対する壮士は不敵な笑みを浮かべ、彼女を正面に捉えたままジリジリと距離を詰めてゆく。

「待つのはあんまり得意じゃないんだ。来ないなら仕掛けるぞ?」
「どうぞご自由に」

じゃあ遠慮なく、と壮士が足の裏に力をこめた瞬間――、

「がッ……!」

腰に重い衝撃。
全くの意識外からの攻撃を受け、壮士は海老反りながら地べたに倒れ込む。
咳き込みながら首をめぐらせると、そこには琴子が取り付いていて、

「今です奈津! やってしまいなさい!」
「てめ……! 卑怯だぞッ!」
「なにが卑怯なものですか! “ゴミ”の攻撃を避けられぬお兄様の不覚です!」
「なっ……」

弾かれたように顔を上げてハゲを探す壮士。
すると、少し離れたところでロバートがゲラゲラと笑っていた。

「ざまあねえなぁ、ソージぃ?」
「あんの野郎ッ~~!」

ハゲ許すまじ。

「いかにお兄様といえど、ゴミとまで愚弄されては捨て置けません。円成寺の女は言われっぱなしを良しとしないのです!」

琴子は瞳に蒼き炎を宿し、こちらの首に腕を巻き付けてゆく。

「ぐっ……、俺じゃねえ! ハゲが言ったんだッ!」

途端に息苦しくなり、顔が青黒に染まってゆくのが分かった。
人体の構造をよく理解しているが故か、このポンコツさん、寝技だけはやたら上手いのだ。

「さあ、お兄様……。天国に連れて行って差し上げます」
「そうは行くかよ!」

強引に手を差し込み、裸絞が決まってしまわぬようあがく壮士。
しかし時すでに遅し。眼の前には冷めた目で睥睨する奈津が立っていて。

「無様ですね。エロ壮君野郎」

ゆっくりと奈津の足が持ち上がってゆく。
壮士は頬を引きつらせながら真っ黒な靴底を眺め、

「……頭はやめよう、危ないから」
「知りません」

なっちゃんのストンピングはとてもとても痛かった。

クロ

クロ

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ノクターンノベルズにて「神様のゲーム」連載中です。 ゲーム版の公式サイトはこちら