悪魔の章 007.奈津日和(下)

奈津について行くこと数分。
壮士が連れて来られたのは空港の外れにある駐車場の一角だった。

「これで移動します」

相変わらず表情はのっぺらぼうながらも、少し得意そうな声で奈津が掌を差し向けた先。そこに鎮座していた車を目にして、壮士は「おぉ……!」と一気にテンションを上げた。

「ラングラーじゃないか! しかもネイキッド仕様!」

言いながら壮士が駆け寄ったのは、高い耐久性と悪路における優れた走行性能で有名なアメリカ製の四輪駆動だ。
存在を主張するゴツいタイヤ。ルーフは太いフレームのみのフルオープン仕様で色は深いカーキ色と、アメリカ陸軍の要請で生まれたという車の成り立ちを体現するような一台だった。

「壮君がこの手の車がお好きだということで、お嬢様が手配されました」
「そっかそっか! あとで礼言っとこう! いや、マジで!」

テンションマックス状態でそう答えつつ、車の周囲をぐるぐると回る壮士。
壮士の子供のようなはしゃぎっぷりに、奈津は「やれやれ」と小さく溜息をついて、

「私は普通の車がいいって言ったんですけど、お嬢様がどうしてもって……」
「なにが不満なんだよ、クソかっこいいだろ!?」

壮士の訴えに、奈津は「まあ今のところ大丈夫そうですが」となんだかよく分からない呟きを返して、それからちょいちょいと壮士に手招き。

「はい、これキーです」
「え? 俺が運転するの?」
「当たり前じゃないですか、わたし免許持っていません」

素っ気ない奈津の返しに「いやいや」と壮士は眉をひそめながら周囲に首を巡らせる。
が、行きに拉致された時のような怖そうなお兄さん達はどこにも見当たらず、

「俺、免許はあるけど国際免許は持ってないぞ?」
「ああ、そうでした」

ようやくこちらの疑問を察してか、奈津は忘れてたと言わんばかりにぽむと手を打つと、ポシェットからハガキ大の茶色い紙を取り出した。

「どうぞ、国際免許証です」
「あ、うん……。ありがと」

壮士が再度『日本大丈夫か』と思ったのは言わずもがなである。
けれどツッコむだけ無駄なのだろう。それにこの車を運転できるなら壮士としてもウェルカムだ。

壮士はニヤニヤしながら助手席のドアを開けると、奈津へ向かって手を差し出し『どうぞ』のジェスチャー。
穂乃佳にさえやったことのない拙いエスコートだが、色々と手を回してくれた奈津への感謝の印として、このくらいはして当然だろう。

奈津は眉をひそめながらも大人しく助手席に着いて、

「(……テンション高すぎてちょっとウザいけど)壮君が楽しそうでなによりです」
「なんか聞こえた気がするけど、すげー楽しいぞ」
「テンションあげあげなのは結構ですが、事故を起こさないよう注意してくださいね」
「余裕だって、任せとけ」
「日本と違ってこちらは右側通行です。知ってました?」
「……気をつける。で、まずはどこ行く?」
「どこもなにも壮君がエスコートしてください。デートじゃなかったんですか?」
「サイテーって断ったじゃねえか……。だいたい海外デビューの俺がエスコートできるわけないだろ」
「もう、壮君は甲斐性なしですね。ご飯食べに行きましょう」

やれやれと言わんばかりに首を振る奈津に、壮士は苦笑いして、

「お前、それ言いたかっただけだろ」
「れっつごー」

ぜんぜん楽しそうじゃない平らな奈津の掛け声を受け、壮士と奈津のデートっぽい何かは始まりを告げた。

◆◇◆

出発して暫く――、

「おー、おー、外国っぽいな!」
「外国ですよ壮君、バカなんですか?」

奈津のディスりなんぞなんのその。
日本と異なる信号の形。道路の脇に植えられたたくさんのヤシの木。目に映る建物は総じて低くてデカい。異国情緒の漂う風景に壮士のテンションは上がる一方だ。

「しっかし、なっちゃんと初めて会ったのが十日前ぐらいだっけ? まさかグアムでドライブすることになるなんて想像もしなかったよ」
「結構バタバタしてたもんね」

唐突にタメ口が繰り出されるあたり、奈津のなかでは未だにスタンスが固まっていないらしい。
壮士は『どっちでもいいのに』と内心思いながら肩をすくめて、

「だな、休職したのだって一昨日のことだってのに――」

琴子が悪魔と契約してから十日余り。あれやこれやと壮士は忙しくしていた。
色々あったなかでも特に大きな出来事といえば、壮士の休職と一馬のマンションの処分の二つ。

ゲームに参加するにあたって、元より壮士は仕事を辞めるつもりでいた。
どの程度時間を要するか分からない上、生きて帰ってこれるかすら分からないのだ。
学生の頃から目指していた映像制作の仕事といえど会社に迷惑は掛けられないし、そもそも休職なんて認められるはずもない。

これに待ったを掛けたのが琴子だ。

『認められません』

この件で壮士と琴子は随分やりあったのだが、詳細は省くとして、

『ご家族や穂乃佳様の為にもお兄様の生活は守らねばなりません。今のお仕事は夢だったのでしょう?』

琴子の言い分をグルっとまとめるとこんな感じで、白熱した議論の末に壮士が折れた。
それから二日も経たない内に「休職ということで話がつきました」と奈津から連絡があり、出社してみれば社長室に呼ばれ「しっかり頑張りなさい」と謎のエールを送られる始末。
奈津に探りを入れたところ、それとなく金と権力を示唆され、曲がったことが好きではない壮士は琴子を問い詰めたのだが――、

『はい? 金持ちが金を使ってなにが悪いのですか?』

いや、そういう話ではないのだが。
ともあれ、貧乏人の壮士は叩きのめされてしまい、一昨日晴れて無職ニートの身分となったのである。

もう一つは一馬のマンションの処分だ。

こちらについては下世話な話、維持するだけでも金が掛かる。
一馬の失踪から一ヶ月以上が経過していることもあり、家族の間で『引き払った方が良いだろう』という話が出ていた。

もっとも、この件はあくまでも内々《うちうち》の話であって、琴子と相談するような類の話ではない。
ただ、あとで文句を言われては敵わないと思い、壮士は彼女に電話したのだが、その時のやり取りは本当に酷いもので――、

『一馬様のマンションを引き払う……?』
『ああ、今のところ家賃は兄貴の口座から落ちてるみたいだけど、ずっとこのままってわけにもいかないからな』
『なんて無体な……! お兄様は一馬様の生活を壊すおつもりですか!?』
『そんな怒らなくたって……。あそこって賃貸だぞ? 生活壊すとか大袈裟だろ』
『一馬様は記憶を失っているのですよ!? ただでさえ失職されているところに住むところまで失うだなんて……、一馬様がお可哀想です!』
『いやいや、実家あるから。一人暮らししたいなら改めて別の部屋探せばいいじゃないか』
『一馬様なりの思い入れがあるかもしれないではありませんか!』
『そりゃ多少はあるかもしれないけど……、私物は実家で保管しておくし、処分するのは部屋の契約だけだから。だいたい兄貴はそんな細かいことでアレコレ考えたりしないって』
『お兄様は冷たいです!』
『あの……、俺のハナシちゃんと聞いてる?』
『聞いていますとも! ようはお金の話でしょう!?』
『だ、だからな? 金うんぬんがあるのは事実だけど兄貴は死んじまってるわけで――』
『失踪しているだけです! 訂正してください!』
『あ、うん、失踪な。兄貴は失踪中なわけで……、親父やお袋も気に掛けてるし、金よりもそういう周りの気持ちがだな……』
『もう結構です! お兄様に任せておけません! 私が一馬様の生活をお守りします!』
『このクソ妹っ! いいかげんハナシ聞けや! お前兄貴のこと好き過ぎなんだよッ!』

そんな感じに琴子にブチ切れられ、壮士がブチ切れた翌日のことだった。

『諸所の手続きが終わりました』
『手続きって?』

訪ねてきた奈津の話によると、琴子は一馬の契約名義を変えることなく契約を維持し続けるよう、マンションの家主と管理会社を抱き込んだらしい。

『一馬様がお戻りになった時点で元の契約形態に戻すよう申し合わせています』
『無茶苦茶だな……。いや、だからな? 金うんぬんの話じゃなくて……』

この件の根本にあるのは一馬の失踪に伴う周囲の常識的な対応であって、金や契約がどうこうという話ではないのだ。
しかし、

『一応……、ご両親への言い訳も用意しています』

琴子の用意したストーリーはこういう感じだ。

兄貴は必ず戻ってくる――、そう家族に熱く訴える壮士。
あのマンションには兄貴の思い出が詰まっている。行方不明になってまだたったの一ヶ月じゃないか。兄貴が返ってくるまで俺があそこに住んで兄貴の居場所を守るよ! 俺たち家族が信じてやらないでどうするんだ!

『だいぶ適当な気がするけど……』
『私もそう思います。きっとお嬢様もその辺りはどうでも良かったんだと思います』

その後、壮士が親と熱い議論を交わしたエピソードは省略するとして、結局壮士は一馬のマンションに住むことになってしまったのである。ちなみに、壮士がグアムに拉致されたのも一馬のマンションからだ。

そんな忙しない十日ほどを過ごして、現在――、

「……グアムへ拉致だもんな。なっちゃんの妹むちゃくちゃ過ぎるだろ」
「壮君の妹でもありますけどね」
「俺は認めていない」
「それよく言ってますけど拘りあるんですか? あ、そこ右です」

あいよ、と小気味よく答えつつ壮士は思う。

琴子を妹と認めてやるのはもう少し先でもいいんじゃないか。
だって、琴子は穂乃佳から聞いている。
ずっと昔。穂乃佳にそうしたように、可愛い子に意地悪するのは男の礼儀なのだと。

ぜんぜん素直じゃないかもしれない。迷惑かもしれない。
けれどそれが壮士なりの愛し方だ。心にだって最大限の愛情を以ってイジってきた。

何より琴子はとても愛らしい。袖にされる度にしょんぼりする彼女をもう少し見ていたい。
この短い間に琴子とは何度も喧嘩したけれど、あれだって兄妹のじゃれあいみたいなものだ。

そうやって少しずつ積み上げてゆけばいい。琴子とも奈津とも。
ゲームに生き残れたその時、琴子からは積み上げたもののすべてが失われてしまうけれど、ちゃんと壮士と奈津には残ってゆく。無駄にはならない。

だから、今はただひたすらに積み上げていこう。重ねていこう。
楽しいことも、腹が立つことも、悲しいことだって、何だっていい。

そうして重ねた数だけ、未来の琴子に聞かせてやれる思い出話が増えてゆくのだから。

◆◇◆

奈津と過ごすグアム観光はとても楽しいものだった。

人気のシーフードレストランで食事を摂った後、マーケットで買い物をして、有名な史跡を巡り、イルカを見に行ったりと、奈津に案内されるまま壮士は初めての海外旅行を満喫した。
同道する奈津も笑顔こそ見せてくれなかったが、終始楽しそうにしていたと思う。水族館に行ったとき捕食者の目でエビの水槽を眺めていたし。

ともあれ、楽しい時はあっという間に過ぎるものだ。
気づけば日が傾く時間になっていて――、

「そろそろ琴子のところへ行こうか」
「最後にもう一つだけいいですか?」
「もちろん構わないよ。どこ行きたい?」

ありがとう、と静かに答えた奈津の表情に、憂いのような感情を覚えたのは気のせいだろうか。

「恋人岬に行きたいです」

◆◇◆

恋人岬。

グアムのシンボルとも言われる人気スポットで、海抜百メートル以上の断崖に立つ展望台からは美しい海岸線を見渡すことができる。また、恋愛成就のパワースポットとしても有名――というのは、奈津から教えてもらった知識だ。

「絶景だな」
「はい……」

硝子玉のような紅い夕陽が海に沈んでいく。
紅色が途切れ始めた雲を不思議な色あいに変え、その照り返しが岬に立つ壮士と奈津を同じ色に染めていった。

「恋人岬の伝承を知っていますか」

夕陽へ目を向けたまま、不意にそう言った奈津の横顔は美しかった。
白い肌がなめらかに光り、紅色に混じり合うその様は幻のような、作り物のような美しさを帯びていて、

「海外デビューの俺が知ってるわけないだろ」

けれど、彼女が奏でたその声に寂然とした何かが含まれていたように思えて、故に壮士は胸に去来した不安にも似た情動を振り払うかのように茶化して答えた。

「先住民であるチャモロのとある恋人達のお話です」

奈津は切々と悲しい恋の話を語りだした。

「許されない愛で結ばれたチャモロの男と女。男は高い身分の出身でしたが、女は身分が低く、男は掟で格下の者と交わることを厳しく禁じられていました。
男は、とある村の若く美しい娘と恋に落ち、駆け落ちします。男はほうぼうを周り自分達をかくまってくれる味方を探しますが見つかりません。それでも男は娘と別れようとはしませんでした。
男の親族に追われ、恋人達はしばらく鬱蒼とした森や険しい岩場を放浪しますが、頼るもののない悲惨な暮らしにやがて絶望していきます。
死を覚悟した二人は石を積んで墓にすると、そこに悲しい愛のしるしである赤子を横たえました。 そして行き場を失って途方に暮れた二人は、海に面した高い断崖の頂上へ登り、髪で互いを結びつけてしっかり抱き合い、眼下の波間へ身を投げました。それがこの岬です。後にこの岬はスペイン人に恋人たちの岬と名づけられました」

ちゃんちゃん、と平板に締め括った奈津の話は、まさに悲恋と呼ぶに相応しい物語だろう。
しかし、

「ここって縁結びのパワースポットなんじゃなかったのか?」

伝承を聞く限り、とても恋愛成就にご利益があるとは思えないわけで。
奈津もこちらと同じ意見なのだろう。彼女は「ですよね」とかすかに苦笑して、

「まあ、誰が最初に言い出したのか知りませんけど、名所になるならこじつけだってなんだってするんじゃないですか」
「商売のために?」
「お金が嫌いな人なんていませんから」

ロマンの欠片もない奈津の結論に「世知辛いな」と肩をすくめた壮士はもうひとつ。彼女がなぜ自分にこんな話を語って聞かせたのか気に掛かっていた。
まさか自分との縁結びにここへ連れてきたのではないのだろうし、ただ夕陽を見たかったというのも今ひとつピンとこない。

思い過ごしかな、と壮士は内心で思いつつも、

「それで話はおしまいか?」
「というと?」
「そんな悲しい話を披露してくれたんだ。なにか言いたいことがあるんじゃないかなって」
「…………」

直球な壮士の問い掛けに、奈津は黙ったままこちらを見つめるだけで、その黒い瞳の奥に秘められているであろう感情は読み取れなかった。
そうしている内に夕陽は海へと溶けてしまい、やがて奈津はほんの少しだけ目尻を下げて、

「ちゃんと御礼を言っていませんでしたね。ありがとう壮君、お陰でリフレッシュできました」
「……いや、こっちこそ色々案内してくれてありがとう、楽しかったよ」
「これから大変なことがたくさんあるでしょうけど、また機会を見つけて遊びに連れて行ってください」
「ああ」

釈然としないまま相槌を打った壮士に、奈津は「そうだ」と小さく手を打つ。

「せっかく恋人岬を紹介したんです――」

彼女のそれはごく自然でありながらも、壮士の心の隙間を突くようなタイミングであり、

「いつか穂乃佳様を連れて来てあげてください」
「っ……、だな、そうさせてもらうよ」

故に壮士は、答えるまでのあいだに一秒にも満たない僅かな時間喉をつまらせる。
それを無表情に見つめていた奈津は満足だとでも言わんばかりに小さく頷いて、

「そろそろ行きましょう。お嬢様がお待ちです」

静かにそう言って岬を降りてゆく奈津。
壮士は眉をひそめつつ「ああ」と呟き、彼女の後を追ったのだった。

◆◇◆

それから壮士達は琴子の待つ別荘を目指した。
その間とくにこれといった会話はなく、壮士は黙してハンドルを握り、奈津は淡々とナビゲートするだけだった。

強いて語るべきエピソードを挙げるなら、

「シャレにならんわ!」
「ちょっとしたミスです。もし突っ込んでも衛兵さんが止めてくれます」

奈津のナビゲートミスで米軍キャンプへ突っ込みそうになったという程度だ。
ともあれ、ここまで会話らしい会話が無かったのは本当のことで、そうなってしまった原因は主に壮士の側にある。

恋人岬で見せた奈津の態度が未だに引っ掛かっていた。
ただ壮士自身、腑に落ちない何かを上手く言葉にする自信がなかったし、そも、考え過ぎなのではないかという思いも拭えない。奈津はただ名所を案内してくれたに過ぎないのだから。

いずれにせよ、グダグダ考えるのは性に合わない。
奈津は饒舌なタイプではないし、こちらから話を振らなければ車内は静かなままだ。

そんな風に壮士は気を取り直して、軽快なトークを繰り広げようとしたその時――、

「? 雨……?」

ぽたぽたと粒の大きい雫が二の腕を叩き始めた。
すると、珍しくも慌てた表情で、奈津がクイクイと服の袖を引いてきて、

「壮君、車とめて!」
「あ、ああ……」

少々戸惑いつつも車を路肩に寄せる壮士。
走っていたのは島の北側。左手に海、右手が林といった感じのさほど広くもない道で、壮士らが乗る車以外に通行している車はない。

「壮君、幌!」
「ほろ……?」
「後部座席の後ろにあるから! 幌張って!」

奈津は車を降りながらそう言って、トトトと林に向かって駆け出した。
ひとり残された壮士がぽかんとした顔で首をひねった直後――、バケツをひっくり返したような雨が振ってきた。

「これって……、もしかしてスコールってやつかッ!?」

そんなアタリを付けている間にも、壮士はとんでもない量の雨に打たれあっという間に全身濡れねずみになってゆく。
転がるように車を降りて、車の後ろに周りながら奈津へ目を向ける。――と、

「ふぅ……、あぶなかった」

あろうことか奈津は大きな木の下にひとり陣取って、いそいそとハンカチで額を拭いていた。

「ちょ、おま、雨宿りしてないで手伝えよッ!」

びしょ濡れになりながら言った壮士に対して、奈津は胸の前に両腕を持ち上げ小さくサムズアップ。わかりやすく『がんばって!』のサインである。

「あああああ! クソッ!」

盛大に叫び、壮士は滝のような雨のなかひとり幌を張ったのだった。

それから暫くして。

「なっちゃんがオープンカー嫌がってた理由がわかったよ……」
「こんなに濡れて可哀想に」

ほんの少し顔をしかめながら、ずぶ濡れの壮士の頭をわしゃわしゃとタオルで拭うなっちゃん。
彼女が陣取った大きな木の根元は的確に豪雨をいなしていて、奈津はほとんど濡れてなかった。

そんな彼女へジト目を送った壮士に、奈津は薄く微笑んで、

「がんばりましたね、壮君。雨のなか必死に幌を張る姿はとても男らしかったです」
「…………」

当然この無表情娘はスコールに遭うことを織り込んでいただろうし、事前に壮士へ警鐘を鳴らすこともできた筈だ。
つまりそれをしなかったのは純度100%な悪意であり、もはや定例となりつつあるイタズラの類であると考えて間違いないだろう。
文句の一つも言ってやりたいところなのだが、悲しいかな、美少女に褒められ頭を拭われては悪い気がしない壮士である。

そんなこんなで、やむなく壮士は奈津にされるがまま大きな溜息をついて、

「今って雨季なの?」
「暦上は乾季ですよ」
「スコール凄いな……。乾季でもこんなに降るんだ」
「乾季っていっても、降る量とか回数が減るだけで降らなくなるわけじゃないですから」

その掛け合いを最後に、車内のそれをトレースしたかのような空白が訪れた。

「…………」
「…………」

バリバリと油紙を破くような激しい雨音なか、拭い拭われる時間が暫く続き、やがて壮士は苦笑いしながら「もういいよ」と奈津の手を押した。

言葉を選ばずに言えば、あまり良い気がしなかった。
奈津のその行為から、よく分からない憐れみのような感情が伝わってきて、いたたまれない気持ちになってしまうのだ。
ただの思い過ごしに違いない、あるいは思い上がっているだけだろう。そう思うけれど――、

「質問してもいいですか」
「いいよ、なんでも聞いてくれ」

感情のパズルのピースがカチリとはまったようなタイミングでの奈津の問いかけ。

「壮君は……」

壮士はそれを、恋人岬で抱いた疑問の答えなのだろうと直感した。

「ゲームに勝って、生き残ることができたとしたらどうするつもりですか」

奈津が問うているのは、記憶がどうとか、一馬や心や琴子がどうとか、そういう周りの人のことではない。勝利し、命を繋げたその時、壮士自身が何を成すつもりなのかを尋ねている。

ああ、やっぱりそうだったんだ、と壮士は思った。
恋人岬でのあれはこちらの内心を見透かす為のカマかけだったのだ。

つまり彼女は、琴子よりも壮士に近い感性を持っている人で――、

「穂乃佳と別れるよ」

ならば隠す必要はないだろう。奈津のそれは確認に過ぎないのだから。

「そうなりますよね……」
「そりゃそうだよ」

壮士は本来、己の命に替えてでも守るべき人である穂乃佳を見殺しにした。
彼女が生き返ったその時、一馬や心、琴子からも、穂乃佳自身からも記憶が失われる。すべてを記憶しているのは、いいや、記憶したままになってしまうのは壮士ひとりだけだ。

「側にいる資格が無いとかそういうことじゃないんだ。あれだけのことをしたんだ。穂乃佳を幸せにすることが罪滅ぼしだって、責任だって言う人はいると思う」
「きっとあの子はそんな風に考えています」

あの子と呼ぶからには、奈津のそれは琴子の姉としての言葉なのだろう。
壮士はそんな風に受け止めて、

「だろうな。俺だって出来ることならそうしたいって思ってるよ」

けれど、人はそれほど強い生き物ではない。
少なくとも壮士は穂乃佳の側に居続け、彼女を幸せにする自信が持てないでいた。

「知ってるだろうけど、神に連れて行かれるちょっと前、俺は穂乃佳にプロポーズした。穂乃佳が生き返るとしても、アイツのなかではその時から時間が止まったままになる」
「ええ……」
「若造の俺が言うには安いけどさ。結婚して家族で居続けるって幸せなことばかりじゃないと思うんだ。大変なことがたくさんあると思う」

親を見てたらつくづくそう思うよ、と壮士は苦笑いして、

「そんな普通の生活のなかでさ、何かある度に俺のしたことが棘みたいになって俺を苦しめる。俺が穂乃佳にしたことは一生を懸けて償うべき罪で、たとえアイツが覚えていなくたって償い続けるつもりだ。
だから償うのはいいんだ、苦しむのもいい、当然の罰なんだから。だけど俺はそのうち保たなくなる。情けない話だけど、罪意識を丸っと呑み込んで穂乃佳を幸せにできるほど俺は強い人間じゃない」
「穂乃佳様が傷つくのはいいんですか?」
「傷つく短い時間より、ずっと長く続いていく残りの人生を台無しにする事の方が罪じゃないかな」

奈津は「そうですか」と静かに答えて、背を木に預けて空を見上げる。
空は相変わらずの雨雲で、壮士の胸の内を形容したような陰鬱な風景が広がっていた。

「壮君の本当の気持ちをあの子に話してあげないんですか?」
「話してどうなる」
「どうせ全部忘れちゃうし?」
「そうじゃなくって……、俺と兄貴はあの子に色んな物を背負わせちまった。記憶のこともそうだけど、それ以前に生きて帰れるかさえ分からないんだ」
「はい、とんだクズ畜生野郎壮君ですね」

なんだかよく分からない罵倒を受け、壮士は「ごもっとも」と苦笑い。

「だからさ、あの子にはできる限り笑っていてほしい。穂乃佳のことを話せば、きっとあの子は悲しむだろうし、何とかしようと頑張っちまう。たとえ忘れてしまうとしても、たくさんの楽しい思い出を作ってやりたいんだ」
「だったら妹にしてあげればいいのに」
「それとこれとは別の話だ」

奈津の言い分はごもっともだが、認めてしまうと琴子の拗ねた顔を拝めなくなってしまう。

「んで、そんなこと聞いてどうする。同情とかならいらないぞ?」

努めて軽い調子で尋ねた壮士に、奈津は空を見上げたまま少しのあいだ沈黙して、それから彼女は納得したような大きな息を吐き、

「そうなんだろうなって思ってただけで、どうっていうのはありません」
「聞いてみた感想は?」
「同情が半分、自業自得だって思う気持ちが半分、そんな感じでしょうか。春日部様や月宮様、そして穂乃佳様は壮君なんて比べ物にならないくらいの傷を負ったんですから」
「違いない」
「でもやっぱり一番悪いのは神様です。あと壮君のこと、悪い人じゃないんだろうなって。悲しい人だなって思います。本当に」
「そこは礼を言うところか?」

どうかな、と顔を向けてきた奈津は優しく微笑んでいて――、故に壮士は思わず口のなかで「なんだかなあ」と呟かずにいられなかった。
初めて目にした彼女の笑顔がこんな場面であったことが、悲しくもあり嬉しくもある。いずれにせよ、こちらを思ってくれてのものであれば残念に思う必要はないだろう。

そんなこちらの気持ちなど知る由もない奈津は「まあ」と微笑を消して、

「壮君が悪い人じゃないって分かったのは収穫です」
「そりゃあ良かった。雨に打たれた甲斐があったな」

小さく苦笑しながら壮士は空を見上げた。
やはりスコールというべきか。少し話している間にすっかり雨は上がっていて、

「そろそろ行こうか」
「はい、お嬢様が首を長くして待っているでしょうしね」

そう応じた奈津に微笑みを返して車へと向かう壮士。
小さくなってゆく彼の背に向かって――、

「壮君は悪い人じゃない、一番悪いのは神様。でも……」

ぼそりと呟かれた奈津の声は、壮士の耳に届くことはなかった。

クロ

クロ

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