悪魔の章 006.奈津日和(上)

ハンバーガーショップのそれから数日が過ぎた十一月末。

「うわ、あっつ……」

旅客ターミナルを抜けるやいなや湿り気を帯びた暑い空気に包まれ、壮士は反射的に顔をしかめた。
晴天にさんさんと輝く陽光がコンクリートの床に眩しいほど照りかえり、鼻孔をくすぐる潮の香りも相まって、この場所が異国であることを実感する。

米領グアム。

赤道にほど近い有名なリゾート地は、間もなく師走を数えようかという日本とは打って変わって夏真っ盛りだ。

「グアムに到着しましたよ、壮君」
「そうだね、なっちゃん。……って、なんで待たされてんのかと思ったら着替えてたのか」

音もなく隣に並んだ奈津を見ると、ベージュの生地にエスニックな柄をあしらったノースリーブワンピースに身を包んでいた。常夏のリゾート地で過ごすに相応しい出立ちだ。
一方の壮士はというと、ジャケットこそ脱いでいるものの、その下はウールのカットソーという冬仕様である。

そんな暑苦しい壮士の姿を、奈津はまじまじと眺めて、

「えっと……、壮君って寒がりさん?」
「てめえマジふざけんな! なにが『ちょっとそこまで』だ! 外国じゃねえか!」

今から遡ること約6時間前のことである。

日が昇ろうか昇るまいかという早朝に、壮士は奈津からの着信連打で叩き起こされた。聞けば『起きて。はりーあっぷ。お嬢様が待っています』と奈津は言う。
用件を聞いてもそれしか答えてもらえず、壮士は仕方なしに欠伸を噛み殺しつつも適当に身支度を整え玄関を出た。
すると、家の前になんだか高そうな黒塗りの車が止まっていて、中から出てきた怖そうなお兄さんに車に押し込まれた。
どこへ行くのかと尋ねてみても、奈津は『ちょっとそこまで』と答えるのみ。
そうこうしている内に空港に到着。促されるままついて行くと、そこは国際線ターミナル。おいおい、と焦り始めた壮士に奈津はパスポート(持っていなかった)を押しつけて、訳の分からない内に日本を後にすることになってしまったのだ。

そうして現在に至るわけで、壮士が憤るのは至極当然なことなのだ。

「というか、なんでなっちゃんが俺のパスポート持ってんだよ……」
「お持ちでなかったようなので、こちらで用意しておきました」
「それって公文書偽造だろう」
「偽造じゃないよ。本物だよ」

なお悪い。

「せっかくなので十年パスポートにしておきました。今後もそれを使ってくださいね」
「日本大丈夫か……」

異国の地で祖国の行政を憂う壮士に、奈津は「まあ」と言って歩き出す。

「お金とか、コネとか、権力とかがあれば、大抵のことはどうにでもなるということです」

そっかあ、と琴子の持つ力に改めて感嘆する壮士。
物珍しさに周囲を見渡しながら彼女の後を追って、

「凄いな、円成寺」
「っ……、凄いね、円成寺」

素直すぎる壮士の感想が可笑しかったのか、奈津がクスリと笑った――ような気がした。
しかし、彼女がどんな表情をしたのか、奈津の後ろを歩く壮士には伺うことができない。

「残念だ」
「? なにがですか?」

足を止めて振り返る奈津に、壮士は「なんでもない」と苦笑い。
まだ一度も奈津が微笑む姿を目にしていない。けれど、こうして他愛のない事を積み重ねてゆけば、その内見せてくれるようになるだろう。

そんなことを考えつつ、壮士は奈津の隣に並んで、

「ところでなっちゃん」
「なんでしょう、壮君」
「さっきからちょいちょいタメ口が混ざってるけど」
「ご不快でしたら改めますが」
「いや、直さなくたっていいよ。ぜんぜん嫌じゃないし、心《こころ》で慣れてるしな。ただ、なんでそんなことになっちゃってるのか気になってさ」

なるほど、と顎に手を当てて考え込む奈津。
雑談程度に振った話なので、こうも真剣な顔を作られると困惑するのだが、

「実のところ悩んでいまして」
「なにを」
「キャラです」
「作るなよ……」

ただでさえ奈津の人となりを図りかねているところなのに、そんなことをされては何が何だか分からなくなる。どうして素で行こうという発想にならないのか。
呆れのため息をつく壮士に、奈津は少し不本意そうな顔をして、

「誤解です。対壮君用のキャラ作りがしたいわけじゃないんです」
「じゃあなんだよ」

問われた奈津は「それは……」と何かを口にしようとして、しかし思いとどまって――、

「(チッ……)」
「感じ悪いなおい!」

最終的に舌打ちされた。こんな理不尽があっていいものか。

「壮君の鈍さになっちゃんは傷つきました。謝罪を要求します」
「断る。事あるごとに俺に謝らせようとするのやめろ」

この無表情メイドはSっ娘なのだろうか、ご主人様はドMなのに。
そんなどうでもいいことを考えていると、尻ポケットからバイブレーション。
スマホ取り出し確認すると、通知欄に“自称妹”の文字が映し出されていた。琴子からのメールだ。

「自称妹……、壮君の性格の悪さが滲み出ていますね」
「ほっとけ」

画面を覗き見する奈津を追い払って内容を確認。
内容を目で追いながら自然と口元を緩ませた壮士を見て、不思議そうに首をかしげる奈津。
そんな彼女を横目に収めつつ、壮士は琴子の携帯にダイヤルした。

『お兄様っ、到着されましたか?』

わずかワンコールで弾んだ声が耳に届く。
壮士は「はいはい、お兄様ですよ」と喉を鳴らして、

「拉致まがいにさらわれて到着したぞ」
『申し訳ありません。事前にお伝えしようとしたのですが、奈津が黙っていようと……』

なに? と奈津にジト目を送る壮士。またもやなっちゃんのイタズラだったらしい。
が、なっちゃんは明後日の方向を眺めていた。妹と同じく都合の悪いことには完全無視である。

「……それで、ここが例の練習場か?」
『はい、日本で用意できなくもなかったのですが、あちらでは色々と面倒がありますから』

殺しの練習をするにあたり、琴子が銃器刃物の扱いに触れていたことを思い返す。
日本では銃を用意したりぶっ放すのは都合が悪いという感じだろうかと、壮士はアタリをつけて、

「それはわかったけど、やっぱ事前に言っといて欲しかったな。なんの準備もしてないし」
『身体一つで問題ありません。必要なものはすべてこちらで用意します』
「いや、そういうことじゃなくてだな……。周りに何も話していないだろう?」

ここが練習場というからには、相応の期間をグアムで過ごすことになるのだろう。
となると、気掛かりなのは両親親類だ。
一馬と心《こころ》に続き、壮士の婚約者である穂乃佳までが行方不明だ。また、そうなってからの日も浅い。
両親の心労は言うに及ばず、壮士の周囲はかなりナーバスになっている。
そんな状況で壮士までが姿を消したら大問題だ。

『そういうことですか……。申し訳ありません、配慮が足りず』
「まあしょうがない。しばらく自分探しの旅に出るとでも言っておくよ」
『そんなのご両親がお可哀そうです……、月に一度でも戻るようにしてください」

ありがとう、と壮士は笑いながら答え、それから声を一段と低くして言う。

「どのみち負ければ俺達も行方不明だ」
『ええ』

琴子の冷たい声を受け、壮士はそれまでの空気を改めるように息を吐き、

「そういう訳だから早いとこそっちに合流するよ」
『? メールを読んでいただいていないのですか』
「読んだよ。けど、今度でもいいんじゃないか?」

直後、大きな溜息をつく音が聞こえて、

『お兄様』
「うん?」
『穂乃佳様に強いた仕打ちを思えば、とてもそんな気持ちになれないと。そんな風にお兄様は思っておられるのではないですか?』

琴子の指摘を受け、胸に刺すような痛みが走った。
面と向かってもいないのに、この子に掛かれば丸裸だな、などと壮士は内心で思いつつ、

「遠からず近からずってところだな」
『焦る気持ちは分かります。自罰的になるのも分かります。けれど、私達が挑むその時までまだ四ヶ月近くあります。張り詰めてばかりでは保ちませんよ』
「そうかもしれないけど、初っ端から緩む必要もないだろう?」
『私の記憶のためです』

そう琴子に言われてしまえば、壮士は返す言葉を持たない。
それに彼女が指摘した通り、焦り、自罰的になっている面もあるのだろう。

壮士は胸の内で琴子と奈津に感謝しながら「わかった」と答えて、

「自信ないけど頑張ってみるよ」
『お兄様ならきっと大丈夫です』

相も変わらず琴子が寄せてくる厚い信頼に何か返せる物はないものかと、壮士は頭をひねる。

「なあ、琴子」
『はい……?』

一つだけあった。
初めて奈津と会った時、琴子に言ってあげようと思い、けれど口にしなかった言葉がある。

「前に言いそびれたんだけどさ――」

出会って間もない壮士が、こんなことを言うのは不躾だろうと思ったのだ。

しかし、ちゃんと言うべきだったと思う。
琴子はこんなにも真っ直ぐに自分を思ってくれている。そして壮士は、琴子が契約を交わした際、一馬と心に代わってこの子を愛してあげようと誓ったのだから。

「琴子はひとりぼっちじゃないよ。だってさ、お前の為に怒ってくれる人がいるじゃないか」
『…………』
「なっちゃんには遠く及ばないだろうけど、今後は俺もお前を想う仲間に混ぜてもらうつもりだ」

いいか? と壮士が問うてから数秒の空白を挟み、

『もちろんですっ……』

直接顔を見たかった、そう悔やまれるくらい琴子の声には喜びが溢れていて――。

「後で会おう」
『楽しみにしています』

壮士は微笑みながら通話を切り、それから琴子から送られたメールを今一度開いた。
そこにはこう綴られている。

そろそろ到着された頃だろうと存じます。
お兄様にとっては初めての異国の地となりましょう。今日一日ぐらいは観光を楽しんでください。
案内役に奈津を付けます。あの子も普段は私につきっきりですから、この機会に羽根を伸ばすよう申し付けているのですが、なにぶん生真面目な子です。お兄様からもゆっくりするよう言ってあげてください。
お会いできるのを楽しみにしています。

お兄様の妹、琴子より。

追伸。
どうやら奈津はお兄様と親しくなる為に、どうアプローチすべきか悩んでいるようです。
多少の無礼はあるかもしれませんが、悪意あってのことではありません。
どうか寛容なお心で受け止めていただけますよう、奈津に代わりお願い申し上げます。

「ほんと、妹を押してくるなあ」

そう呟きつつも、壮士はほっこりせずにはいられなかった。
琴子らしい手回しの良さはともかく、彼女の文章には壮士と奈津への思いやりが溢れている。

このメールから察するに、先ほどのなっちゃんが言ったキャラ付けというのは、壮士とフランクに接した方が良いか、多少の距離感を保った方が良いか――みたいな、イマイチ定まっていない接し方を指してのことだったのだろう。

壮士は「そんなの分かるわけねえだろうが」と口のなかでだけ呟くと、スマホをしまって、

「終わったぞ」
「壮君、いやらしい顔してます。私の読みではお嬢様のメールが原因です。見せてください」

キャラ付けの一言だけで、奈津の可愛らしい悩みを察しろというのは無理がある。舌打ちされたのは不当だ。
そう思うけれど、

「慈愛のこもった眼差しをいやらしいとは何事だ。あと、メールはみせてやらない」
「どうしてですか」
「なっちゃんが恥ずかしい思いをするから」
「なんですそれ。ますます見たくなるんですが……」

壮士への複雑な感情に蓋をして、奈津は奈津なりにこちらと距離を詰めようとしてくれている。
それを嬉しく思えないほど、壮士は人情味に欠ける男ではなかった。

「メールはともかくだ、なっちゃんよ」
「ぜったい後で見せてもらいますけど。なんでしょう、壮君」
「デートしようか」
「お断りします。壮君、婚約者いるのにサイテーです」

清々しいまので一刀両断だった。

それを受け、壮士は腕組みして『いくらなんでも性急に過ぎたか』と考え直す。
ナンパ野郎という汚名を拝するわけにはいかない。壮士はただ単になっちゃんと仲良くなりたいだけなのだ。

「デートは訂正する。近頃気が滅入ることばっかりだったからな。気晴らしがてら案内してくれないかな。琴子のとこ行く前にちょっと遊びに行こう」
「Alright」

綺麗な発音でそう言って、奈津が踵を返して歩き始めた。
今度はオーケーをもらえたらしいことに壮士は小さく息を吐きつつ、慈しむような感情を込めた眼差しを奈津の後ろ姿へ向けたのだった。

クロ

クロ

自作小説を投稿しています。成年向けの内容を含みますので18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。
ノクターンノベルズにて「神様のゲーム」連載中です。 ゲーム版の公式サイトはこちら