悪魔の章 005.人を殺す練習

時は再び現在へと舞い戻る。

「悪魔に会わせました」
「そうか、そういうことか……。だからあの時お前は契約を保留したんだな……」

ようやく壮士は、琴子が敷いた二重の欺瞞《ぎまん》に気がついた。
綾部奈津が悪魔と面識があるということは即ち――、

「ぜんぶ茶番だったってことか?」
「お許しください」

壮士の推察は琴子の謝罪で以って肯定された。

琴子は悪魔の人となりを図った訳でもなければ、自らの能力を証明する場を設けたかった訳でもない。初めての会談で彼女が回答を保留したのは、悪魔ではなく壮士に対する欺瞞だったということだ。

「お兄様――」
「いや、いい。それは後にしよう。先にすることがある」

騙した意図を話そうとしたであろう琴子の言葉を遮って、壮士は奈津に向き直る。

「…………」

変わらず仇を見るような目で睨んでくる奈津。
そんな彼女の瞳を見据えながら壮士は両の手をつき、続けて額をテーブルに擦りつけて、

「大切な妹を巻き込んですまない」

五体投地とはいかないが、このくらいはして当然だろう。
きっと奈津の目には神も悪魔も壮士も同類に映っている。
どいつもこいつも等しく琴子を不幸にする輩だ。

「君がどんな気持ちでいるのかも考えないでのんきに振る舞っていた。怒って当然だ」
「おやめください、お兄様はご存じなかったのですから……」
「お前は黙ってろ」

頭を下げたまま低い声でそう言った壮士に、「はいっ、お兄様」と弾んだ声で答える琴子。
なにがそんなに嬉しいのか不可解極まりないが、それはともかく、

「知ってたとか知らなかったとか関係ない。俺は綾部ちゃんを傷つけたし、これからも傷つけることになると思う。謝らせてほしい」

悪魔のゲームは精神論だけで挑んで良いゲームではなく、また勝てるゲームでもないだろう。

さきの交渉を通じて、琴子に抱いていた印象は実感へと上書きされている。
なにせ壮士はこの短期間の内に二度に渡って欺かれていたのだから。

「許してくれとは言わない。いや……言えない。琴子を思う君の気持ちを蔑ろにしてでも、俺にはやらなきゃいけないことがある」

悪魔はなにか、壮士のことを鈍い人間であるかのように言うが、そんなことはないと思う。
自分ではごく普通の感性を持ち合わせていると思っているし、実際二十四年生きてきたなかで、人から鈍いと評された経験などほとんどない。

洞察力、先見性、思考の速さ、判断力、詐術に弁術、精神力。
どれもこれも琴子が人より卓抜《たくばつ》しているだけなのだ。

「情けない話だけど、きっと俺ひとりじゃ勝てない」

今なら納得できる。琴子に縋ろうとした一馬の判断は正しい。彼女の備える力は、ときに人を殺し、ときに命を守り、あらゆる形でゲームの勝ち残りに寄与するだろう。
だから、どうしても、

「俺には琴子が必要だ」

精一杯の謝意を込めたそれから、十秒近くが経っただろうか。
その間耳に届いたのは周囲の野次馬的な囁き声だけで、奈津から反応らしい反応はなかった。

痺れを切らした壮士は恐る恐るといった感じに顔を上げる――と、

「おい……」

奈津は元の能面のような表情でポテトをぐまぐましていた。ちなみにぐまっているポテトは琴子のトレイから奪ったモノだと思われる。
困惑する壮士を捨て置き、奈津は琴子の方へと意味ありげな視線を送りつつ、

「お嬢様の言う通りでしたね」
「当たり前です」

得意気にそう言って奈津の方へトレイを押し出す琴子。それを小さくガッツポーズしながら受け取る奈津。

シリアス感の欠片もない二人のやり取りを目の当たりにして、壮士は『また担がれたか』と思いはしたが、それを責めようとは思わなかった。
というのも、琴子は寂しさと喜びを綯い交ぜにしたような表情でこちらを見つめていて、一方、奈津の纏う空気からも怒りの残滓を感じ取れたから。

何をどう言ったものかと、壮士が考えている内に、

「桐山様なら誠意をもって謝罪してくれるだろうと、お嬢様が」

奈津から示されたそれは即ち、彼女の憤りに対する壮士の反応を、琴子はあらかじめ予想していたということだろう。

「お兄様は一馬様の弟君ですから。実直な方に違いありません」
「そう思ってくれるのは嬉しいけどさ、ちょっと気を許しすぎじゃないか?」

琴子の言い分を鑑みるに、過剰とも思える壮士への信頼は、どうやら一馬の弟であるということが大きく影響しているらしい。
とはいえ、琴子と会うのはこれがまだ二度目。寄せてくれる信頼に応えねばと思う反面、こうも無防備に信じられるといくらか心配にもなるというものだ。

「それは思い違いですよ、桐山様」
「? 思い違いって?」

首をひねる壮士に、奈津はポケットから小さな手帳を取り出して、

「桐山壮士、24歳。1月19日生まれ。泉蘭高等学校を卒業後、八代芸術大学・メディア映像学科に入学。大学卒業後は映像制作会社フィルマークス・ピクチャーズ株式会社に入社。企画部に所属。今年度夏季賞与査定はB+。上司、同僚からの……」
「ちょっと待て。それって……」
「もちろん桐山様のパーソナルデータです。桐山様からご連絡があったあと、お嬢様の指示により調べさせていただきました」
「連絡? もしかして会う前に電話したアレか?」
「ええ、ちなみに電話を受けたのは私です」
「そうだったんだ。別に聞いてないけど」
「なにを他人事のように言ってるんですか。あのとき私は桐山様のせいで叱られたんですよ」
「俺のせい?」
「桐山様からの電話ならサッサと言えと、お嬢様に叱られました。謝罪してください」
「それって俺のせいじゃないよな? サッサと言わなかった綾部ちゃんのせいだろ?」
「私は傷つきました。謝罪してください」
「まあ、うん……。なんか知らんけど急に電話して悪かった、ごめんな」
「仕方ないですね、謝罪を受け容れましょう」
「もうそれでいいから話を戻してくれ……、ってあれ?」

ヒラヒラとぞんざいに手を振りながら壮士はふと気づく。

「ということはあれか? 琴子は俺の勤め先も仕事内容も知っていたのに『どんなお仕事をされているのですか』なんて聞いてやがったということか?」
「…………」

ジト目を向けられた琴子は窓の外を眺めていた。完全無視である。
睨み無視する二人に、奈津は小さく溜息をついて、

「続けていいですか」
「なんか納得がいかないけど……、どうぞ」
「桐山様の個人情報は一馬様の周辺を調査する過程で既に入手していました。追加で実施したのは、ご学友・同僚・上司等、桐山様と面識のある人物からの聞き取り調査です。無論、これらはお人柄を知るためのものです。よろしければそちらについても――」
「いらない……」

手で顔を覆って呆れの溜息をつく壮士。
つまるところ琴子は一馬の弟という肩書だけでなく、壮士の人柄を客観的に評価した上で信用に値すると判断したということだ。しかも初対面の前には終えていたという手際の良さで。

「お兄様」
「なんだ、自称妹よ」

ネタばらしされてみると、いかにも琴子がやりそうなことだ。
こうした用心深さや周到さが彼女の怖いところであり、反面頼もしく思う部分でもある。

「さぞご不快に思われたことでしょう。重ねてお詫び申し上げます」
「いいや、別に怒っちゃいないよ。琴子はすごいなあって思っただけだ」

よかった、と胸をなでおろす琴子に壮士は口元を緩ませずにはいられない。

こうして面と向かって話してこそ伝わることがある。琴子は客観的な指標を持ち出しはしても、決してそれは彼女のなかで大きなウエイトを占めてはいない。
だって、初めて会った時に琴子はこう言ってくれた。

――壮士様は一馬様と血を分けたご兄弟。私にとっては貴方様もまた愛すべき人なのです。

琴子のそれは壮士を慕う、あるいは慕いたいという想いありきのものだろうと思う。
なんともいじらしい妹候補だ、などど壮士が考えていると、

「あと、必要だと言ってくださり、琴子は嬉しゅうございました」
「そっか。ただ思っていたことを口にしただけなんだけど、喜んでくれたなら俺も嬉しいよ」
「はいっ、いつの日か一馬様にも言っていただきとうございます」
「…………」

ニコニコと、本当に楽しみだと言わんばかりに微笑む琴子を見て、壮士は掛ける言葉を見失う。

このいたいけな少女が夢想するそんな日が、幸福に彩られた瞬間が、果たして訪れるだろうか。
琴子からも、一馬からも、心でさえ、思い出の一切が失われてしまうのに。

交渉の末、すべてを記憶に留めておけるのは壮士ただ一人となってしまった。
琴子の願いが成就するそのとき、彼女はかげがえのない人達を失ってしまう。

もし、もし、悪魔のゲームを二人揃って生き残ることができたなら、一馬と心、そして琴子に伝えてあげたいと思う。
彼らが互いをどれほど大切に思っていたのか、命懸けで愛したのか、何度でも諦めずに話そうと思う。

そう思うけれど――、

「本当にすまない、琴子……」

神様のゲームで得た体験は、今の琴子にとってあまりに大きい。
あそこで得たすべてを失うということは、琴子が初日の、あの打算の塊のような冷徹な少女に戻ってしまうということだ。

「記憶の件はいいのです。やむを得ないことですから」
「いいはずないだろう」

性格を思えば、琴子の負う傷は死にも勝る痛みを伴うだろう。
それを強いたのは壮士と一馬だ。身の置き場がなく、どう償えは良いのかすら分からない。

「むしろあの程度で済んで良かったではありませんか」

琴子がそう言ってくれるのなら、これ以上自責したところで負担を掛けるだけだ。
そう考えた壮士が「うん、そうだな」と笑顔を向けると、琴子はニヤリと嗤って、

「それにお兄様。私は何ひとつ諦めていません」

自信に満ち満ちた琴子の視線が突き刺さる。

「心が教えてくれました」
「心……?」
「お兄様は見ておられたのでしょう? アーニャさん達を失い、一馬様が自失状態となられたあの時、私は心に『自分が死ねば良かった』と弱音を吐きました。そしたらあの子は慰めてくれたのです。『あなたが私とお兄ちゃんを救ったんだよ』と。一馬のことだって……」

知っている。覚えている。忘れるはずがない。
心は落ち込む琴子を励まし、慰め、そして、

「――生きていれば必ず取り戻せる、そう心が叱ってくれたことを私は忘れていません」

大きく目を見張って絶句した壮士に、琴子は「ですからお兄様」と優しい微笑みを浮かべて、

「失ったものは取り戻せば良いではありませんか。生きていれば取り戻せます」
「っ……」

途端、鼻の奥に痛みが走り壮士は咄嗟に顔を俯かせた。
魂が裂けるような悲しみが襲い、なのに全身が震えるほどの喜びが込み上げてくる。

――琴子にサヨナラしに行こう。

そう一馬に告げた心はどれほど悔しかっただろうか。

生きていれば取り戻せると叱ったのに、心は琴子を置き去りにするしかなかった。いいや、一馬を信じてあげたかったが故に、自ら琴子を置き去りにしたのだ。
何度も何度も何度も、心は自分を責めただろう。ひとりぼっちにしないという約束を破ることに、四肢をもぎ取られるような痛みを覚えたに違いない。

琴子は裏切られた。心にも、一馬にも。
それでも尚、心の想いは琴子のなかで今でも色褪せることなく息づいている。

「……ああ、そうだな。お前ならきっと取り戻せる」
「無論です。最後に笑うものが勝者というものですよ、お兄様」

一馬の遺書に綴られていた一文が否が応にも思い返された。

――琴子は強い子だ。

された仕打ちを思えば、琴子が兄と従妹を恨んでも何もおかしくない。なのにこの子は二人を取り戻す為に命を賭けると、壮士を助けると言ってくれる。

琴子は本当に何ひとつ諦めていなくて、失うつもりもないのだろう。

奪われた物は何度だって取り返す。最後に幸せになれれば勝ちだ。
そう言って胸を張るこの小柄な女の子は、どこまでも強欲で、強くて、そして愛情深い。

「とはいえ私も、愛の力だけで二人を取り戻せるとは思っていません。それゆえお兄様と奈津を引き合わせたのですが……」

と、そこまで言ったところで琴子は「ああ、そうでした」と手を打って、

「お兄様を欺いていた理由をお話していませんでしたね」
「ん? ああ、そういやそうだな」
「本当はもう少し日を空けてからお話しようと思っていたのです。けど……」

言って、苦笑しながら横目で奈津を指す琴子。折を見て話すつもりでいたが、その前に奈津が壮士に食って掛かるだろうと思っていた、琴子の言わんとするのはそんなところだろう。
ついでに言うと、自分を思ってくれてのことだから奈津を責め辛い、そんな風に壮士は解釈して、

「まあ、その事については話してくれなくったって、だいたいの察しはついているよ」
「ならば良い機会です。是非ともお兄様が推察したところをお聞かせください」

なんで、と壮士が目で問うと、琴子は指を立てて自らのこめかみをツンツンとつつく。
こちらの頭の出来を確かめておきたいといったところか。

「ふふ、ちょっとしたお遊びです」

クスクスと笑う琴子は真実楽しそうだ。
しかし、

「舐めやがって……、上等だ」

壮士とて、こうまで分かりやすく挑発されては黙っていられない。琴子には遠く及ばないとはいえ、人並み程度の知性は備えているというところを見せておきたい。兄(認めていないが)の体面に関わるというものだ。
それに、こんな遊びに近い問答でも無駄にはならないだろう。悪魔のゲームが始まれば、琴子の知性が活かされる場面が幾度となくあるに違いない。
彼女が算段を立てるなかで、壮士の能力を知っておくことは必要なことだ。参謀に正しく戦力を把握してもらうことは兵卒である壮士の努めともいえる。

「ちょっと整理する時間をくれ」

どうぞ、と琴子が頷いたのを受け、壮士はこれまでの出来事を材料に琴子が意図したところを紐解いてゆく。

紐解くといっても、答えはほとんど出ているようなものだ。
なにせ『奈津が悪魔と面識がある』という大きなヒントがある。

奈津が悪魔と会っていたということはひとまず置くべきだろう。肝要なのは、琴子が悪魔と会っていたという点だ。
琴子は壮士の関与を排除した状況下で悪魔と事前交渉しておきたかった。これが一度目の会談で琴子が回答を保留した理由に違いなく、二度目の会談が茶番であった所以だ。

敵愾心を露わにしたことも、今となれば『悪魔の人となりを図った』というのに加え、別の理由があったんじゃないかと推察できる。
あのとき悪魔は強硬な琴子の態度を受け、『らしくない、何が狙いだ』と尋ねていた。琴子に何かしら意図とするものがあるのではと勘ぐっていたのだ。
琴子は悪魔の度量を図りつつ、事前交渉のサインを送っていたのかもしれない。

次に、契約内容の交渉が行われた二度目の会談。
気づかなかった壮士が言うには安いが、顧みるとあれも違和感が残る。

契約の瑕疵。神と悪魔に関する考察。それらを壮士に解説するかのような会話の流れであったし、肝心の交渉内容についても、交渉と呼べるほど交渉していない。悪魔が琴子の要求を全面的に受け容れた格好になっている。
あらかじめ琴子と悪魔との間で出来上がっていたストーリーだとすれば至極納得できる話だ。

なら、どうして琴子は悪魔との交渉に壮士の関与を排除したのか。
心配をかけたくない、みたいな感情的な配慮はゼロでないだろうが、たぶんそれだけではない。

琴子は一度目の会談で、壮士が結んだ契約の瑕疵について察知していたに違いない。
そして琴子は二度目の会談で、壮士が結んだ契約に自らを加える形態――四者間契約とするよう要求した。

あの契約内容と契約形態が琴子の目指した着地だ。
そこへリーチする為に必要なものは二つある。
悪魔との交渉が一つ、もう一つは“壮士の同意”だ。既存の契約を修正するには、現契約者の同意が必要となっている。壮士が頷かなければ契約は修正できない。

仮に一度目の会談時点で交渉を行った場合、交渉がどういう方向に転ぶかは琴子をしても予想は不可能だっただろう。内容如何によって、壮士が頷かない可能性は十分あった。
しかし、琴子がゲームに参加する上で壮士の契約の修正は必須だ。あの時点では、琴子と壮士が敵対関係に陥る危険性があったし、何より個別契約ではゲームに勝っても一馬が生き返らない。

だから琴子は、事前に悪魔と交渉を行い、壮士が頷くであろう水準にまで悪魔の妥協を引き出す必要があった。その過程に壮士を関与させては、話そのものが潰れてしまう恐れがある。そんな風に琴子は考えたのではないか。

そんな考察を、壮士が話して聞かせると、

「素晴らしいです、お兄様。ご明察です」
「本当に凄いな琴子は……」

琴子はとても嬉しそうで、素直に褒めてくれているのだろうが、壮士はただただ驚くばかりだ。
瑕疵の気づき、神と悪魔の力の考察、それらに気づいたのはもちろん凄いことだと思う。少なくとも壮士は一つも気づけなかった。

けれど、彼女の本当に凄いところはその高い知性ではなく、立案・判断する“速度”だ。
一度目の会談時点で、当然琴子は悪魔の存在を知らず、壮士とも初対面だった。一馬の真実に触れたのもあの時だ。
そんな初めてづくしの状況下で、琴子は自らが望む着地を定め、そこへリーチする為の絵を描き、手を打った。

にわかに信じ難い話だ。
判断が速すぎる上に、妥当性があり、整合性も取れている。

「なんかもう、お前一人だけでも勝てるんじゃないかって思えてきたよ」
「そう言ってくださるのは嬉しいですが、そんな甘いものではありません」

呆れ気味に苦笑した壮士に、琴子の表情が真顔に変わる。
彼女は右に左にゆっくりと首を振り、

「お兄様の考察は70点です」
「まだ何かあるのか……?」
「お兄様は一つ、大きな点を見落とされています」

静かにそう言って、琴子は自らが意図していたところを話し始めた。

彼女が指摘した見落としとは『悪魔との交渉が不調に終わるケース』を想定していない点だ。
悪魔を挑発した理由は正解。悪魔と事前交渉するつもりであったことも正解。けれど琴子は事前交渉に於いて、悪魔から妥協を引き出せなかったケースを最も危惧していた。
壮士が結んだ契約を修正できないとなれば、全員は生き返らない。ゲームに勝利したとしても、一馬か、それ以外の全員か、どちらか一方が生き返らないということになる。

「もし爺さんが頷かなかったらどうするつもりだった」
「悪魔が望むままの個別契約を結び、お兄様と共にゲームに参加。ゲームが始まった直後、お兄様を後ろから刺すつもりでいました」
「はあ……?」

もう、本当に、今度こそ壮士は言葉を失った。
意味がわからない。壮士を刺してなんになる。

「私はお兄様が思うほど自信家でも、楽天家でもありません」
「わかるように言ってくれ……、必ず勝てるって俺にも爺さんにも啖呵きってたろう?」
「あんなものは嘘です」
「嘘って……、いや、嘘でもいいけど、なんで俺を刺すって話になる」
「無論、お兄様をお止めする為です」
「止めるだと? よりにもよってお前が俺を止めるのか?」
「口で言っても頷いていただけないでしょうし、残念なことにこの小さな身体では力ずくという訳にもいきません。何よりゲームに参加する役務は契約で定められたもの。私が随伴して不意打ちでもしないことには止められないでしょう。契約上、途中下車は許されています」
「本当に意味が分からない……。それじゃ誰も取り返せないだろうがッ。何のために穂乃佳や心、兄貴達は死んだ!?」
「それでもお止めするつもりでした。死ぬと分かっているのに、愛すべき人を止めずにいられましょうか」
「やってもいない内にッ……、たとえ100%死ぬとしても俺には挑む責任がある。じゃなきゃ、死んでいった人達に申し訳がたたないだろうがッ!」
「勇気と蛮勇は違いますッ!」

瞬間、睨み合う二人に水を差すかのように手帳が放り込まれた。
もちろん投げ入れたのはちゅーちゅーとシェイクを飲んでいた奈津で、

「契約は成立しました。済んだ話でケンカするなんて不毛ですよ?」

いつの間にか身を乗り出していた二人は奈津を見て、それから互いを見やり、バツが悪そうに椅子に座り直す。

「……でかい声出して悪かった」
「いいえ、私こそ偉そうに物を申しました。お許しください」
「でも正直意外だったよ。琴子は俺以上に兄貴達のことに拘ってるだろうって思ってたから。もちろん、皆のことを大切に思っていないって意味じゃない。そこは勘違いしないでほしい」
「わかっています。私とて命に替えてでも皆様のことを取り戻したいと思っています。けれど、お兄様が言ってくれたでしょう? 引くのも勇気だよ、と」
「ああ」
「勝てる目算も無いゲームに挑ませて、お兄様が無駄死するのを座視できませんでした。そんなこと一馬様も心も穂乃佳様だって望まれないと思います」

まるで敗北を確信しているかのような琴子の口ぶりに、壮士は問わずにいられない。
やってもいない内から何をそこまで悲観する必要があるだろうか。

「そんなに勝つ見込みがないか?」
「ゼロとは申しません。しかしながら、ゲームの内容が不明であることに加え、知力体力、度胸に度量、弁術まで必要とあらば、何の根拠も無しに挑んでいい程このゲームは易くないでしょう」

続けて琴子は「それさえ嘘かもしれません」と眉をしかめて、

「たとえばゲームの内容がジャンケンだったとしましょう。50%の勝率として、相手が5人いれは勝てる確率は2の5乗、わずか3%です。まず勝てません」
「ジャンケンって、いくらなんでも極論だろ」
「馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれませんが、これはあの神と悪魔が仕組むゲームです。こんな馬鹿げた内容であっても不思議ではありません。あの者達は人の命を羽虫のようにしか思っていないのですから」

なまじ琴子の言い分に共感を覚えてしまうがゆえ、壮士は強く否定できない。
一方、そんなことを考えていたら何もできなくなる。こう言ってはなんだが、琴子のそれは臆病者の言葉だとも言えなくもない。

無論、琴子はそんなこと百も承知なはずで――、

「仮にそうだったとしても仕方ない。勝負事に運はつきものだろう?」
「おっしゃる通りです。運否天賦を言い訳に逃げるは弱者のすることです」
「……お前、この一週間なにしてた? そう言うからには爺さんと交渉してただけじゃないだろ」
「ええ、寄る辺を作っていました」

ニヤニヤと嗤って言った琴子のそれは、きっと残りの30点に違いない。

「よるべ?」
「私達が“勝てる”と思える根拠です。事前対策は封じられています。しかし、勝ちに行くからにはそれなりの根拠が必要です」
「この一週間、その根拠とやらを作っていたと」

そこでようやく壮士は気づく。数時間前、琴子は美しも恐ろしい顔でこう言ったのだ。

「もしかしてそれが人を殺す練習か?」
「はい。練習場を整えておきました」

人を殺す練習場。物騒すぎる響きだ。
とうの昔に腹はくくっているので望むところではあるが、単純に琴子が怖い。

「お話がまとまったようですし、そろそろよろしいですか? 私の話がまだ終わっていません」

やや眉間にシワを寄せて、話に割って入ったのは奈津。
壮士は一度息を吸い、それから表情を改めて奈津に向き直り、

「改めて謝罪する――」
「もういいですよ。私が言いたいことは一つだけです。琴子を守ってあげてください」

お願いします、とペコリと頭を下げる奈津。それを受け、壮士は「参ったな」と頬を掻く。
もっとたくさん言いたいことがあるだろうに。こうも真摯に頭を下げられては、貸しを作ってしまったような気分になる。

「お願いされなくたって守るさ、君の大切な妹を死なせたりするもんか」
「言質を取りました」

微妙に恐ろしい言葉を吐きつつ、顔を上げた奈津の顔はやっぱり真っ平らで、本当のところどう思っているのか心配になる。
そんな壮士の気持ちを察してか、琴子がふわりと笑って言う。

「奈津は私達が勝つための根拠の一つです。仲良くしてください」
「なんだそれ、実は綾部ちゃんが凄腕の暗殺者とかという裏設定でもあるのか?」

直後「バカじゃないですか」とボソリと呟く奈津。
呟きなんだから聞こえないようにしてほしい。

「奈津と悪魔を引き合わせたのは二つ理由があります。一つは私達を支えてくれる協力者が必要であること。実際のゲームに挑むのはお兄様と私ですが、準備を整える上で、支援してもらう人が必要です。私にとって奈津は姉も同然ですし、円成寺の家に於いても秘書に相当します。故にこれまでの事情を含め、すべてを知ってもうことにしました。二つ目は私の記憶が失われることへの対処です」

阿吽の呼吸で奈津が後を引き継ぐ。

「ゲームに勝利した際、お嬢様の記憶は失われます。記憶に留めておけるのは桐山様おひとりだけとなりますが……、ゲームが終わった後に、桐山様がお嬢様に接触することはほぼ不可能です。こう見えても、琴子お嬢様は名家のご令嬢です」

「なるほどな」と頷く壮士。「……こう見えても?」と睨みを利かす琴子。
どうにかしようと壮士が動いたところで、記憶を失っている琴子にアプローチするのはかなり困難だろう。会うことすら難しいかもしれない。

「要するにゲームが終わったあと、綾部ちゃんに俺と琴子のつなぎ役になったもらうと。それも含めて綾部ちゃんには事情を知ってもらったってことだな?」

そうなります、と奈津が頷き、琴子が用意している記憶への対処法の一部を紹介してくれた。

一週間前から琴子は日記をつけていること。
自らの考えと思いを、映像として記録していること――等々を話した上で琴子が言う。

「悪魔は現実世界を改変する力は持っていません。逆に言えば記憶以外は干渉できないということです。様々な媒体で記録を残しておけば、物を知らぬ以前の私といえど興味は惹かれるでしょう。というより、私はそういう質《たち》です」
「琴子は強いな……」
「そのなかでも桐山様。記憶を保有している生の人間の証言は欠かせません。ですので将来を見据え、私と桐山様は懇意とならねばならないというわけです」
「そういうことならいくらでも協力する。いや、俺から頼みたいぐらいだ」

前のめりな壮士に、奈津は「いいでしょう」とほんの少し口元を緩めて、

「お互いの距離を縮める為にも、まずは呼び名を変えるところから始めましょう」
「ああ、そうだな。桐山様とか一馬様とかややこしいし、ちょっと他人行儀だもんな」
「今から私は桐山様のことを“壮君”とお呼びします」
「すげえ距離詰めてくるな……」
「私のことは親しみをこめて“なっちゃん”と呼んでください」
「ってか、壮君って心と同じ呼び方――」
「なっちゃんと呼んでください」

なかなか味な真似をしてくる子だ、と壮士は内心で苦笑いする。

奈津の仕掛けは酷く既視感を覚えるやり取りだ。
きっと彼女は一馬と百合子のそれをなぞり、心の呼び名をあえて採用したのだろう。

「じゃあ、なっちゃんで」
「よろしくお願いします。壮君」

嫌な気分じゃなかった。やっぱり奈津の表情は真っ平らで、けれど、その黒い瞳には確かな優しさが宿っていたから。

慰めてくれたのだろうか。そうだったらいいなと思う。

ゲームが始まるまで四ヶ月あまり。なっちゃんにはたくさんお世話になるだろう。
数ヶ月が経った時、どんな気持ちで自分を壮君と呼んだのか、教えてもらえるような関係を築きたいものだ。

ちなみに、

「お兄様っ、奈津とだけ仲良くならないでくださいっ!」

傍らで琴子が拗ねていたのは、また別の話だ。

クロ

クロ

自作小説を投稿しています。成年向けの内容を含みますので18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。
ノクターンノベルズにて「神様のゲーム」連載中です。 ゲーム版の公式サイトはこちら