悪魔の章 004.契約交渉(下)

琴子から連絡があったのは、それから一週間後のことだった。
前回と同じく一馬のマンションを会談場所に、琴子は開口一番こう告げた。

「まずは状況を整理しましょう」

壮士が頷き、続いて悪魔が「どうぞ」と促すと、琴子はこれまでの出来事を時系列に話し始めた。

「神がゲームを行っていることを察知した悪魔は、失踪状態にある一馬様と心を探して回る壮士様に接触。心象世界に拉致し、ゲームの存在と閉鎖空間内で起こっている出来事のすべてを見せました」
「いかにも」

悪魔が肯定したのを見届けると、琴子は壮士に目を向けて、

「壮士様が悪魔と契約したのはゲーム内時間で4日目。この時の契約内容は、一馬様と心の両名がゲーム中に命を落とした場合、蘇生させることを悪魔は約定。壮士様はその代償として、悪魔が仕組んだゲームに参加するという役務を負うことになりました」
「それで合っているよ」
「その後悪魔は神の目を盗み、自失状態となられた一馬様を心象世界にへ連れ出した上で、魂の歪みを修復。悪魔は意識を取り戻した一馬様に対して、壮士様と結んだ契約の存在を告げると共に、一馬様を加えた三者間契約とするよう提案しました」

事実関係のみ整然と話す琴子の口ぶりに、悪魔が満足そうに二度三度頷いて言う。

「実に簡潔明瞭ですな。私への恨み節が入っていなくて安心しました」
「……、続けます」

琴子は悪魔を軽く睨みつけると、それから頭の中を整理するように顎に指を添えて話を再開させた。

「一馬様が悪魔の提案を受け容れるに至った経過は省きましょう。結果として壮士様・悪魔間の契約は、一馬様を加えた三者間契約となりました。
この三者間契約に於いても、壮士様が負う役務に変更はありません。悪魔のゲームに参加することが、壮士様が果たすべき義務となっています。
修正が加えられたのは、悪魔が提供する対価の内容と、それが得られる条件の二点。この段階で二者間契約時の内容は破棄され、壮士様が神殺しを成した場合に限り、神のゲームで死亡したすべての人を蘇生させるという形に変更された、という認識で間違いありませんか?」
「間違いありません。一馬殿の魂を代償にそのような変更と相成りました」

悪魔の答え受け、琴子が確認するように壮士に目を向ける。
壮士は腕組みしながらシッカリと頷いて、

「俺も同じ認識だよ。可能性としてはゼロに近いケースだと思うけど、もし俺が神殺しに失敗――要するに、ゲームに負けてそれでも生き残った場合は、穂乃佳達を取り戻せないってこと以外にペナルティはない」
「そちらについても齟齬はありません。壮士殿が果たすべき義務はゲームの参加までです」

つまりゲームの勝敗が影響するのは、壮士が対価を得られるか否か、その一点に限定されるということだ。仮に悪魔のゲームに敗北したとしても、契約で以って壮士が命を奪われるということはない。

それを受け、琴子は考え込むようにわずかに顎を引き、それからチラリと悪魔に視線を送る。その探るような眼差しを察してか、悪魔はゆるゆると首を横に振ると、

「嘘はありませんし、騙してもいませんぞ?」
「貴方にとってはそうなのでしょうね」

あからさまに含みがあるような言い回しで答える琴子。
彼女はここまでの話に区切りをつけるかのようにフッと息を吐いて、

「話を進めましょう。神のゲームが終わった後の一ヶ月間、壮士様と悪魔は私の動向を監視していました。一馬様が残された意思、そして未だ一馬様達のことを忘れていない私を見て、二人は私と接触することにしました。
悪魔が私に持ち掛けた契約内容は、一馬様の蘇生を対価に私が神殺しを成すこと。これもよろしいですね?」
「ええ。壮士殿同様、嬢には神殺しを達成することを条件に一馬殿の蘇生をお約束します」

悪魔が琴子に持ち掛けた契約は『神を殺す』という条件で壮士のそれと共通しているが、受け取れる対価は別だ。
壮士が受け取れる対価は一馬を除いた神様のゲームで犠牲となった人々であり、一方、琴子が受け取れるのは一馬の蘇生のみとなる。

そこまで整理できたところで、壮士が問う。

「認識にズレがないことは確認できた。琴子ちゃんの答えを聞かせてほしい」
「契約内容、及び契約形態の交渉を要求します」

琴子のそれを耳にした途端、大仰な吐息を漏らしたのは悪魔だ。

「一馬殿といい嬢といい、強欲な方達だ。私は十分過ぎる条件を提示しているではありませんか」
「そうでしょうか」

即座に切り替えしたところをみると、琴子は悪魔が難色を示すことは織り込み済みだったのだろう。
対する悪魔も琴子の要求は予想の範疇だったのか、完全に突っぱねるといった雰囲気はなく、どこか諦めを感じさせるニュアンスで、

「そうですとも。死んだ人間が生き返るのですぞ? 人の世ではあり得ないことです」
「確かに。貴方の言い分に一理あることは認めましょう」

続けざまに、琴子は「しかし」と強い口調で言うと、いくらか視線を鋭くして壮士に向き直り、

「壮士様。この契約は詐欺――とまでは言いませんが、明らかな瑕疵《かし》があります」
「……なんだって?」

壮士は軽く目を見開いて隣の悪魔に目を向ける。
が、当の悪魔はかすかに口角を持ち上げただけで否定も肯定もしない。

「爺さん、答えろ」
「はて、何のことやら」

琴子の発言はとても見過ごせるものではない。
この契約は穂乃佳らの命を贄《にえ》にして成立させたものなのだ。
眉間に深々とシワを刻み、壮士がなお問いただそうとしたのを琴子は手で制して、

「交渉を要求した理由をお話しましょう」

琴子は人差し指を立てて言う。

「一点目。悪魔が提示した条件で契約を結べば、私達の願いが叶わない可能性があります」
「叶わない? どうして」
「壮士様にお尋ねします。私達の願いとはなんでしょうか」
「神を殺して、穂乃佳や心、アーニャちゃん達を生き返らせることだ。それが?」
「穂乃佳様に心……、一馬様の名前を挙げられないのですね」

琴子のそれに咎めるようなニュアンスは含まれておらず、表情も声も、ただただ悲しみに彩られていた。
彼女が何をどう思っているのか、それに気づかぬほど壮士は鈍くない。

「予定とは違うけどいい機会だ。先に話しておこうと思う」
「というと?」

琴子は壮士以上に、犠牲となった人達を取り戻したいと強く願っているだろう。
だって、壮士は美月やアーニャらと苦難を共にしていない。失った人達に対して、琴子だけが抱く特別な感情があるはずだ。

「兄貴についての話だ」
「……、お聞きします」

そのなかでも、やはり琴子にとって兄と従妹は特別な存在なのだろうと思う。
どう特別なのかは考えるまでもない。ゲームの最中も、ゲームが終わってからも、琴子はその身で以って特別を示してきた。
その特別な人を救うか否かの判断をしようという時に、血を分けた弟である壮士が、救うべき人の名に一馬を挙げなかったことに琴子は傷ついているのだ。

そんな彼女だからこそ、告げねばならない。

「俺は兄貴のことを諦めてる」
「っ……」

傷に塩を塗り込むようなこちらの言葉が余程ショックだったのだろう。
大きく目を見張って絶句した琴子に壮士は胸を痛めつつ、

「本音を言うとさ。先週の時点で君は契約を受け容れるだろうって思ってた。そして受け容れるなら俺は君を止めるつもりだった。今もそうだ。君が契約を結ぶという答えを出したなら止めるつもりでいた」

もっとも、壮士が何を言ったところで琴子が止まるはずが無い。
そんなことは分かっていたが、それでも止めるべきだろうと壮士はずっと考えていた。

「それならどうして私に接触したのですか」
「真実を伝えることが兄貴と君への義理だと思ったからだよ。兄貴は最後まで迷ってた。琴子ちゃんに幸せになってほしいって気持ちと、君に縋りたいって気持ちの間で揺れていたんだ。そして君はずっと兄貴のことを想ってくれていた」
「そう思ってくださるなら、どうして止めるのですか? 壮士様は一馬様を取り戻したくはないのですか?」
「もちろん俺だって、できることなら兄貴を取り戻したい。けどさ、兄貴はもうこのままでいいんじゃないのかな」
「耳を疑います……。本気でそう思っておられるのですか」
「君はなにか思い違いをしていないか?」
「どういう意味でしょうか」
「これは俺の想像だけど、琴子ちゃんは兄貴に命を救ってもらったと感じているんじゃないのかな。心を犠牲にしてでも君だけはって、兄貴はそう考えたんだろうって思っていないか?」
「…………」

壮士の指摘に少なからず思うところはあるのだろう、琴子はこちらを黙して見つめるだけだ。

「兄貴が君を救ったのも、君を選んだのも事実だ。兄貴は真実、琴子ちゃんのことを救いたかったんだろうし、愛してもいたと思う」
「なら――」
「だからって、君が恩に感じる必要はない。義理を果たす義務もない。だってそうだろう? 兄貴が悪魔と契約を結んでさえいなければ、琴子ちゃんは当然として、穂乃佳や心、春日部君が死ぬ必要なんてなかった。何の罪も犯していない優奈ちゃんがあんな辛い思いをする必要なんてなかったんだ」
「……壮士様は一馬様を恨んでおられるのですか? だから一馬様のことはもういいと」
「違う、そうじゃない。こんなことになったのは、ぜんぶ兄貴と俺の我儘なんだってことを言いたいだけなんだ。兄貴は馬鹿みたいな代償を支払うって勝手に決めて、穂乃佳や心に強いて……、それでもアーニャちゃん達を取り戻したいって願った。それを俺は認めたんだ。俺は兄貴の共犯者だ」

一馬と壮士がしたことは胸を張れることではない。失った人達を取り戻したいという願いは高尚なものではないのだ。一馬のそれは、あのとき生きていた幾人もの人を生贄に捧げた蛮行なのだから。

「兄貴と俺は身内さえ手に掛けたどうしようもない屑だ。それでも兄貴は……、琴子ちゃん、君を選んだ。君だけは生きていてほしいって願ったんだ。だから俺は……」

琴子に真実を告げたことで一馬と琴子への義理は果たした。
ならば自分の思いに正直になっても良いだろう。

「俺は君に生きていてほしい」
「壮士様……」

琴子の命は一馬の我儘のなかの我儘で、共犯者の壮士とて同じ思いだ。たくさん辛い思いをしてきた琴子には、すべてを忘れて静かに暮らしてほしい。
一馬が琴子に縋りたいという思いを残したのは、自分が生き返りたいからという意地汚いものではない。
事実、一馬の命を対価に、悪魔が琴子へ契約を持ち掛けたのは一馬が殺された後のことだし、そもそも兄はそんな安い腹の決め方をする男ではない。
だから、

「たぶん、なんだけど」
「え……?」
「兄貴は俺のことが心配だったんだよ。一人で大丈夫かって、神に殺されやしないかって。『お前なら絶対に取り戻せる』なんて口では言いながら、じっさいは気を揉んでいたんだ。だから最後の最後に、琴子ちゃんに縋りたくなったんだと思う。壮士を助けてやってほしいって」

いらん世話だ、と壮士が苦笑いして言うと、琴子は考えもしなかったとばかりに目を丸くして、それから泣き笑いのような微笑を浮かべた。

「……やはりご兄弟ですね。こうして壮士様とお話していると、ドキリとさせられることがあります」
「そんなに似ているかな?」
「もし一馬様が壮士様のお立場であれば、きっとそのようにお考えになるだろうなと。それに壮士様は、一馬様とお声がよく似ておいでですから……」

壮士に自覚はないけれど、琴子にすれば一馬と重なるものがあるのかもしれない。
そっと目尻を拭う彼女に、壮士は薄く微笑みかけて、

「琴子ちゃんには琴子ちゃんの想いがあるだろうってことは分かってる。だけど、兄貴に引きずられることはないんだ。心達のことは俺に任せてくれ。思いとどまるのも勇気だよ、恥じゃない」
「ありがとうございます。お心遣い、本当に嬉しく思います」

言って、琴子は綺麗な笑顔を浮かべたあと、直ぐに口の端を持ち上げた。
その自信に満ちた、あるいは不遜な表情は実に彼女らしいもので、

「なれど壮士様は、それを以って私が引き下がるとでも思っておいでなのですか?」
「まあ、思っていないかな」

「結構」と満足気に頷く琴子。それに「残念だ」と苦笑いを返す壮士。
数秒見つめ合う時間を経て、琴子は居住まいを正すと、

「瑕疵《かし》について話を戻しましょう。壮士様のお気持ちに触れて、尚の事このまま契約するわけにはいかなくなりました」
「何が引っ掛かっているのか説明してくれ」
「神殺しを誰が成したか、という定義が不明瞭です」
「……悪い、もう少し詳しく」
「まず、いかにして神を殺害するかについてですが……、これは受肉が相当すると考えて良いのでしょう?」

目を向けられた悪魔は「ええ」と首肯して、

「先般のお話ではゲームの勝利が私、ないし神の消滅と申しましたが厳密には違います。ゲームの内容に関わることですので詳細は伏せますが、壮士殿らが勝利すれば神を人の身に堕とせます」
「それが受肉――つまり、神が実体を持つようになるということですね」
「左様。わざわざ殺す方法を説かずとも、人が人を殺すことなど造作もないことでしょう」
「そうなると、“誰が神を殺したか”ということが問題となります」

そこまで聞いて、壮士はようやく琴子の言わんとしていることの片鱗を掴んだ。

「……そういうことか」

誰が神を殺したか。神を殺すその場面に於いて、仮に壮士と琴子の両名が存命していた場合、現契約ではとどめを刺した一方だけが『神を殺した者』と解釈される余地がある。
壮士がとどめを刺せば穂乃佳らが生き返り、琴子がとどめを刺せば一馬のみが生き返る。片方だけの契約が履行されても悪魔の側に落ち度はない。そんな解釈がなされる状況そのものを、琴子は瑕疵だと言っているのだろう。

壮士の理解を察してか、琴子は「まだあります」と眉をひそめ、

「悪魔のゲームの勝者とは誰のことを指すのでしょうか。相手方を殲滅した陣営でしょうか? それとも殺し合った末に最後まで生き残った人を指すのでしょうか?」

ゲームの詳細が明らかになっていない関係で、勝利条件も不明確だ。
琴子が挙げた条件で言えば、もし後者だった場合――、

「俺と琴子ちゃんが殺し合わなきゃならなくなる可能性がある……?」
「そういうことです。勝者が一人であるならば、壮士様と私は殺し合う他ありません。一方が生き残ったところで、私達が契約した救うべき人達の全員は生き返りません」

――悪魔が提示した条件で契約を結べば、私達の願いが叶わない可能性があります。
先だって琴子が指摘したのはこのことだ。

悪魔と壮士、悪魔と琴子。それぞれが結ぶ契約を単体で見れば瑕疵はないだろう。しかし、勝利条件如何によっては、たとえ勝ったとしても二人が望む結果は得られない公算が大きい。琴子の言うように、詐欺とは言えくとも詐欺に近い契約だ。

「関連してもう一点指摘します。そもそも、私と壮士様は仲間なのでしょうか?」
「もちろん仲間――あ……」

下地があったからだろうか、今度は直ぐに察することができた。
琴子の言う思い違いとは『壮士と琴子は“ペア”で参加する扱いとなるのか』という点だ。
悪魔の口ぶりから、いつの間にか壮士は、琴子が参加する場合は自分と共に戦うものだとばかり思い込んでいた。
もし二人が別個のプレイヤーとしてカウントされるなら、先の話と同様、壮士と琴子は敵対関係に陥る可能性がある。

「どうなんだ、爺さん」

これらの点がクリアされなければ、感情以前に、琴子の参加を認めるわけにはいかない。
悪魔を睨めつける壮士を、琴子は「お待ち下さい」と尚も制して、

「もう一つ、見過ごせない大きな問題点が残っています」
「……言ってくれ」

琴子は頷きつつ腕組みすると、難しい顔をしながら人差し指を立てて自らの二の腕を叩き始めた。
暫くの沈黙を挟み、彼女は「少し話はそれますが」と前置きしてから、こう切り出した。

「恐らく神は万能ではありません。この悪魔とやらも同様です」

もっとも推測の域を出ませんが、と琴子は自身の見解を語り始めた。

・神様のゲームのなかで、神自身が「自らは万能ではない」と発言していたこと。
・神様のゲームに巻き込まれた人が拉致された時間が、それぞれ別であったこと。
・百合子が死んだ際、神が一馬の肉体時間を停止させたこと。
・閉鎖空間が現実世界と比較して7倍の速度で進んでいたこと。
・悪魔が創り出した心象世界が現実世界と等倍であったこと。
・悪魔が一馬の魂の歪みを修復したこと。

それらを聞いた壮士は、琴子が何を言わんとしているのか皆目見当もつかなかった。

「ほとんどの事に時間が関係しているのは分かるけどさ……」
「お気づきの通り、今のお話は概ね“時間”に関することです。そしてポイントとなるのは、神と悪魔は超常の力を行使し得るにも関わらず、時間に限っては“不可逆”であるという点です」

直後、悪魔が大きく目を見開いた。
らしからぬ老人の素直な反応を、壮士はいくらか不思議に思いつつ、

「すまない。もう少し詳しく話してくれないかな」
「力の大小・種類などは不明ですが、神と悪魔のいずれも私達にない力を持っています。人の生死を操り、肉体の修復、精神への干渉、訳の分からない空間の創造と、私が目にしたモノだけでも超常のオンパレードです。
しかしながら、万能ではないと、今は推察しています。最たる例として挙げられるのが時間です。恐らく神も悪魔も、個人の記憶に干渉することはできても、時間そのものを巻き戻すことはできません」

そこまで聞いて、壮士はようやく琴子の言いたいことを理解し始めた。
これまで神と悪魔が示してきた力は、いずれの場合も時間を停止、ないし進ませるものであり遡った例はない。また、それらの力は自身が創り出した空間内での出来事だ。

琴子は続ける。

「現実世界と比較して、閉鎖空間がどうして7倍の速度で進んでいたのかは不明です。ただ、悪魔が創り出した空間は現実世界と時の流れが一致していたことから、両者が行使し得る力の種類が異なるという推察は可能でしょう。
いずれにせよ、時を遡るという話はほとんど哲学の領域ですし、私も興味はありません。肝要なのは、神と悪魔は世界の丸ごとを改変するような力は持っていないだろうと考えられることです」

琴子の言うことは分からないでもない。今という瞬間から特定の時間に遡るということは、世に起こった全ての事象を改変するか、タイムリープするというのとイコールだ。これまで神と悪魔が示してきた力から、琴子はそれほどまでの異能は備えていないだろうと推察しているということだ。

「この点を、今現在の私達が置かれた状況に落とし込んでみましょう。悪魔は契約で『死んだ人間を生き返らせる』と約定しました」

生き返りとは、文字通り死んだ人間が蘇生するということだ。少なくともタイムリープではない。つまり約定が守られるその時、穂乃佳や心は今という時間軸で蘇生することになる。

「っ……、そういうことかッ」
「皆様は“ただ生き返る”だけです」

壮士が至った気づきを、琴子が口にした。

琴子の指摘したもう一つの瑕疵とは、たとえ悪魔のゲームに勝利したとしても、穂乃佳や心は死ぬ直前までの記憶を保ったまま蘇生するということだ。そして時間を遡ることができない以上、行方不明であった期間もそのままとなる。

どれだけ視野狭窄だったのだろうか、と自嘲しか浮かばない。
生き返らせる、取り戻す、そのことばかりに気を取られて、一馬と壮士は担保して然るべき大切なことをおざなりにしたまま契約してしまった。

歯噛みする壮士に、琴子は慰めるような声で言う。

「行方不明であったことについては、円成寺の家でご協力できることがあるでしょう。しかしながら、記憶の件はそうはいきません。特に穂乃佳様、アーニャさん、月宮さんが受けた仕打ちは、生涯消えることのないココロの傷となって残ります。壮士様と穂乃佳様のご関係も壊れてしまうでしょう。断じて容認できません」
「……そういう意味なら、春日部君が一番酷い体験をさせられただろうに」
「レイプ魔のことなど知ったことではありません――と言いたいところですが、月宮さんのお気持ちを思えば、彼のことも何とかしなければなりませんね」

月宮さんには負い目がありますから、と琴子は呟き、それからひときわ厳しい視線を悪魔に向ける。

「以上の理由から、交渉を要求します」
「やはり嬢は一角の人物ですなあ、是非とも駒に欲しい」

そう言った悪魔はニヤニヤと嗤って、ねぶるような視線を琴子へ浴びせ掛ける。
それを琴子は真顔で受け止つつ、長い黒髪を手で払って、

「まずは疑問に答えてもらいましょう」
「まだ交渉に応じるとは申しておりませんが?」
「私が欲しいのでしょう? つまらぬ駆け引きは抜きにしてください」
「まあ、宜しい。私が答えぬことには話が進みませんからな」
「記憶の扱いはどうなる」

壮士の問いを受けた悪魔は、軽く肩をすくませて、

「琴子嬢には少々驚かされました。嬢の推察は概ね正鵠を射ています。神も私も時を遡ることも、すべての事象を改変する力も持ち合わせておりません。もっとも擬似的に時を進ませることは可能ですが……、それは本題ではありませんので割愛しましょう」
「聞いているのは記憶の件だ、答えろ」
「まあ、慌てずに。今その話をしているのです。結論を申し上げると記憶の改ざんは可能です。具体的には神のゲームに巻き込まれる以前から、蘇生する瞬間に至るまでの記憶を消去するという形ですな。ただし、壮士殿と結んだ契約にその役務は含まれていません。私が負う義務はあくまでも蘇生させるところまでです」

詐欺だ、と思わず叫びそうになったのを壮士は歯噛みして堪える。
こちらの落ち度をわざわざ指摘してくれるなら、おおよそこの老人は悪魔などではないだろう。

そんなこちらの気持ちを知ってか知らずか、悪魔は愉しげに壮士を一瞥してから続ける。

「次に、壮士殿と琴子嬢が争うことになる可能性の有無、及び、悪魔のゲームの勝利条件についてお話します。こちらについては杞憂です。勝利条件は、神側のプレイヤーを殲滅することとなっています」
「神の手先を全員殺せばいいのですね?」
「左様。今のお話からも分かる通り、悪魔側で参加するプレイヤーは壮士殿と嬢だけではありません。あくまでもお二人は駒の一つに過ぎません」
「悪魔側のプレイヤー間で協調するのは自由、という理解でいいですか?」
「構いません。できるなら、ですが。関連して申し上げますと、お二人の参加形式はペアではなく、個別の扱いです。無論、ゲーム内でお二人が協調されるのは自由です」

いいでしょう、と琴子は話を区切り、悪魔に要求を突きつける。

「貴方が提案した私との二者間契約は拒否します。壮士様・一馬様と結んだ三者間契約に私を加える形に修正してください」
「私は疑問にお答えしただけで、交渉に応じるとは言っていませんが……」
「くどい。私と契約するには応じるより他ありません」

厳とした琴子の態度に、悪魔は大きな溜息をついて手をヒラヒラと振ってみせる。

「まあ、聞くだけ聞きましょう。どの様な条件をお望みで?」

琴子が要求した条件は三つ。

一.壮士が結んだ契約の対価に、一馬の蘇生を加える
二.対価を受け取る条件を、壮士と琴子のいずれかが神殺しを成した場合という形に修正する
三.死亡者を蘇生させる際、一馬と心を除く全員に加え、月宮優奈の記憶を消去する。消去する範囲は、神のゲームに巻き込まれた瞬間から死亡するまでの期間とする

「嬢……、それはいくらなんでも強欲に過ぎるでしょう」

呆れの吐息を漏らす悪魔に、黙して腕組みする琴子。

そんな二人の様を、壮士は歯噛みしながら見守るしかなかった。
言うなれば、琴子のそれは壮士と一馬の尻拭いだ。口出しなどできようはずがない。

「悪魔」
「なんでしょう」

琴子はひとつ頷き、過去に聞いたことのないような誠実さを感じさせる声で言う。

「どうか受けてください。一馬様と違い私は決して譲りません」
「強気な方だ。嬢が引かずとも、私が引けば交渉は決裂ですぞ」
「貴方は受けるべきです」
「受けるべき理由をお聞かせ願いたい」

琴子のそれは、言葉で表現すればまさに『威風堂々』といったあたりが相応しい――。

「私を駒に加えれば必ず勝てます」
「…………」

悪魔は暫しのあいだ琴子を真っ直ぐに見つめ、それから壮士へと目をやった。
シワ混じりの老人の顔には、分かりやすく『ほれ見たことか』と書いていて。

それを見た壮士は「なるほどな」と口のなかでだけ呟いた。

琴子が契約を保留したのは、敵愾心を露わにしたのは、すべてこの瞬間を見越した演出だ。
彼女はわざと不遜を演じ、悪魔の度量と人となりを図った。そして、わざと回答を保留して自らの能力を発揮しうる機会を作ったのだろう。

琴子は愛らしい笑顔を浮かべて言う。

「先ほど私は、一馬様と違って引かぬと申しましたが、何一つ妥協しないという意味ではありません。ただ単に、一馬様が置かれていた状況と違うというだけのことです。
あの時の貴方には一馬様の魂を穢して喰うという欲がありました。提示した対価も十分だったと思います。故に一馬様は苦渋の決断をされた。
けれど、今という時に於いて、貴方が私の要求を容れることで失うものはありません。神を殺す確度を上げ、私という駒が手に入る。それだけのことです。無論、私の要求を容れることで貴方が何かしらの代償を支払わなければならないならその限りではありませんが、そうではないのなら、どうか受け容れてください。
貴方は私に契約を持ち掛けたことで一馬様の魂を喰えなくなりました。契約条件以外であれば、私はいかなる代償も負いましょう。神とは違うのだと、大きな度量を示すことは私たち駒の士気高揚に繋がると思いませんか?」

ねえ、お祖父様と、長い口上を締め括った琴子に、悪魔はククと喉を鳴らして、

「大した小娘だ。確かに私が失うものはありませんからな。嬢の要求を容れましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
「……、言ってください」
「嬢なら理解されていると思いますが、既存の契約を修正するには代償が必要です。一馬殿は壮士殿の契約を修正する為に自ら魂を穢し、私に捧げました。こう見えても私は悪魔ですからな。人間の要求をそのまま容れるなど名折れも甚だしい。嬢には相応の痛みを負っていただかねばなりません」

三度《みたび》、醜悪に顔を歪ませた悪魔に琴子が即答する。

「ゲームが終わった後、私の魂を捧げましょう」
「絶対に認められない」

半ば察していた壮士は即座に割って入った。
いくら口を挟む資格がないとはいえ、そんな馬鹿げた条件を認めるわけにはいかない。

「兄貴が死んだ理由には琴子ちゃんを救うことも含まれている。たとえゲームに勝って兄貴が生き返ったとしても、君が死ぬなら何の意味もないだろう?」
「しかし――」
「爺さん、契約の修正には契約者の同意が必要だったはずだよな?」
「いかにも。一馬殿は既に死亡していますので、今回は壮士殿と私の同意が必須となりますな」
「なら俺の魂を喰え。それで駄目ってんなら絶対に俺は認めない」

悪魔は壮士と琴子の張り詰めた空気を意に介さず、むしろ呆れたように溜息をついて、

「勝手にお二人で話を進めないでいただきたい。嬢の魂などいりません。腹を下しそうだ」
「っ……、なんですって?」
「そもそも私は物乞いではありませんぞ? 嬢であれ、壮士殿であれ、魂を喰いたければ勝手に奪って喰えるのです」
「じゃあ、何を代償にするっていうんだよ」
「私が嬢に求めるモノは“痛み”です。今の嬢が最も大切にしているモノとはなんでしょうか」
「まさかお前……」

悪魔はベロリと唇を舐め、恍惚とした声で琴子へ告げる。

「記憶です。一馬殿が琴子嬢を愛した記憶。琴子嬢が一馬殿に愛された記憶。心嬢と琴子嬢が互いを友と認め合った記憶。それらすべてを供物として捧げていただきましょう。
なあに、痛みといっても痛くはありません。嬢がすべてを取り戻した時、嬢はすべてを失っている、それだけのことです」

悪魔のそれを以って、四者の契約は成ったのだ。

クロ

クロ

自作小説を投稿しています。成年向けの内容を含みますので18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。
ノクターンノベルズにて「神様のゲーム」連載中です。 ゲーム版の公式サイトはこちら