悪魔の章 003.契約交渉(中)

今から一週間前。

「選択の時です」

音ひとつない静寂のなか、悪魔が謡《うた》う。

「すべてをお知りになった嬢に問いましょう。このまま安寧に過ごすのか。あるいは壮士殿と共に立ち、神に復讐せんとするのか。一馬殿のご遺言により選択権は嬢にあります。誰も強制は致しませぬ、嬢が望むまま選ばれるがよろしい」

淀みなく紡がれた悪魔の口上は、まるで孫娘に語りかける好々爺《こうこうや》のように柔らかい。
それを隣で聞いていた壮士は特段違和感を覚えなかった。

「しかしながら、わたくしは悪魔」

悪魔を名乗るこの男は、肩書にそぐわぬ義理堅さを持ち合わせており、物腰は柔らかく、論理的かつ理性的な人物だ。人の情けもわきまえている。

無論、悪魔が好人物という意味ではない。

「大いに囁かせていただきましょう。大いに誑《たぶら》かせていただきましょう」

悪魔のそれらは単なる強者の余裕であろうと壮士は思っている。
これまでの付き合いを通じて、どうしようもなく相容れないと感じた瞬間が幾度となくあった。
人が地にはう蟻の営みを気に留めないように、悪魔もまた人の一挙手一投足に介意《かいい》などしない。

「もし嬢が悪魔のゲームを制することができたなら一馬殿を生き返らせて差し上げる」

だからこの柔らかな声音や表情は、一馬に対する義理や誠意から来るものではない。
悪魔はただ愉しんでいるだけだ。琴子の感情が揺れ動く様を愛《め》でているだけなのだ。

「――お答えを」

文字通りの悪魔の囁きを受け、琴子の口元が禍々しく歪んでゆく。
同時に彼女の瞳から溢れ出た透明の雫がひとつ。ぽたりと胸元のネックレスへ流れ落ちた。

絵になる光景だった。
身につまされる光景だった。

最期まで一馬を信じて逝った心を、琴子はどんな気持ちで見届けたのだろうか。
最期まで神に抗い、首を切り落とされた一馬の亡骸を、琴子はどんな気持ちで見ていたのだろうか。

一筋の涙を流すだけで、顔色ひとつ変えなかった琴子。
こぼれ落ちた雫と、くすんだ輝きを放つネックレスは彼女の悔恨の象徴だ。

故に壮士は信じて疑わなかった。琴子は必ず頷く。

彼女にとって悪魔の誘いは壮士以上に望外だ。一馬や心だけでなく、友である美月を、友に託されたアーニャを、身代わりに死んだ百合子を、萌を、穂乃佳を、遼太を、そして実の母親である椿を取り戻すことができるのだから。

琴子はしかし――、

「暫く考えさせてください」
「え……」

壮士はか細く声を漏らして、琴子が言った言葉の意味を理解するまでに数瞬の時を費やした。
琴子は目を見張るこちらに視線を向けると、ほんの少し首を傾けて、

「いけませんか?」
「あ、いや……、もちろん構わないよ。命がかかっているんだ。しっかり考えて後悔のない選択をしてほしい」

ありがとうございます、と琴子が微笑んだところで話は一応の妥結をみた。
が、その直後、悪魔が白い髭を撫でつけながら、いかにも不満そうな顔で横槍を入れる。

「この場でご返答いただきたい。こちらにも色々と都合がありましてな」
「黙れ下郎」

琴子の反応は素早く、そして苛烈だった。

「私は壮士様とお話ししているのです」
「嬢が契約する相手は私であって壮士殿ではありません」

悪魔がニヤニヤと嗤ってそう切り返したのを契機に、壮士が止める間もなく舌戦が始まってしまう。

「貴方に頭を下げろとでも言いたいのですか?」
「そうは言いません。ただ私は、ものの道理を説いて差し上げているだけです」
「悪魔風情が道理を説くなど片腹痛い。わきまえていないのは貴方のほうでしょうに」
「ほう……、というと?」
「貴方は頼む立場、私は頼まれる立場。分をわきまえなさい」
「なるほど、これはまた随分と大きく出ましたな。しかし、それは勘違いというものです。私は一馬殿の意を汲み提案しているに過ぎません」
「では私の協力はいらないと、そう言うのですね?」
「強制しないと言ったでしょう。伸るも反るも嬢次第。私から依頼することはありません」
「私の協力がマストでないなら、この場で返答を求めるのはそれこそ筋違いでしょう。貴方は餌を待つ犬のように、黙って私が結論するのを待っていなさい」
「どうやら嬢は耳が悪いようだ。こちらにも都合があると申しましたぞ」
「私も言いましたよ? 下郎が、と。貴方の都合など知ったことですか」
「これはこれは、らしくありませんな」
「……らしくない、ですって? 悪魔が私を語るな。気持ち悪い」
「内心はともかく。表面上、嬢は一貫して神に敵愾心を示してこられなかった。私を神と同類とするなら、強気に過ぎるその態度は些か解せません。……なにが狙いですか?」
「狙いもなにも貴方の存在が気に食わないだけです。神に伏していたのは一馬様と心を奪われる前までのこと。状況が違います」
「一馬殿のお命は私次第。そういう意味では、あの時となんら違いはありませんぞ?」
「あらあら堪え性のない悪魔ですこと。私マターと言った舌の根も乾かぬうちに、一馬様のお命を楯にして恫喝ですか。早々に化けの皮が剥がれましたね」
「宜しい――」

瞬間、ビリビリと肌を刺すような濃密な殺意が部屋を満たした。
悪魔は愛玩動物を見るかのように、目を糸のように細めて言う。

「望み通りひねり殺して差し上げましょう。どうやら嬢は勇気と蛮勇を履き違える愚か者のようだ」
「ふふ……」

死刑宣告に等しいそれを受けても琴子は揺らがない。
むしろ琴子は小馬鹿にするように顎を上げて、尊大に言い放つ。

「どれだけ長く生きているのか知りませんが、無知を晒すのはおやめなさいな。蛮勇とは、事の理非是非を考えない向こう見ずの勇気を指します」

言って、琴子は紛うことなき仇を見る目で悪魔を睨めつける。
その眼差しには確固たる意思と矜持が宿っていて、

「私には是も理もあります。たとえ虫けらのように殺されようと、永遠に一馬様を失うことになろうと、私が貴方に屈することはありません。人間を舐めるな、悪魔」

琴子が吐き捨てるように宣戦布告したところでようやく――、

「待て待て待て」

小気味良すぎる言葉の応酬に、とりなす機会を失していた壮士が割って入った。
流石の壮士も看過できない。曲がり間違って悪魔がその気になってしまったら、何のために一馬は命を賭して琴子を守ったのか分からなくなる。
神よりいくらかマシな性格だとはいえ、この老人は神と同じく条理を曲げる力を持っているのだ。

「…………」
「…………」

琴子と悪魔の双方から殺気立った視線を向けられた壮士は、盛大に溜息をつきつつ、

「あのな……、俺達の目的は神を殺すことだろうが。一応でも何でもいいけど、俺達は仲間だ。最低限、利害関係は成立している。そこは琴子ちゃんも爺さんも認めるよな?」

琴子、悪魔の順で壮士が目をやると、悪魔は軽く口の端を持ち上げて、

「壮士殿は心配症ですなあ。私は塵芥《ちりあくた》の言うことにいちいち目くじらを立てはしませんよ」
「……そうは見えなかったがな。あと塵芥とか言うな。またご機嫌ナナメになったらどうする」

言って、もう一度琴子に目を向ける壮士。
元より怒っていたのかどうかよく分からない彼女は、相変わらず表情に変化はなく、

「そもそも」

悪魔に言ったであろう琴子の一言に、壮士は『また蒸し返すつもりか』と警戒感を募らせる。
現に悪魔は彼女に向き直って、

「そもそも、なんでしょうか」
「この場で私が返答せねばならない都合など、貴方にはありはしません」
「恐れ入りました。嬢は私の心が読めるのですか?」
「読める訳がないでしょう? 既に神のゲームが終わってから一ヶ月が経っています。その間、壮士様と貴方は私の動向を監視していました」
「それが?」
「悪魔のゲームとやらがどのようなものか知りませんが、少なくともこのゲームがごく近い内に始まることはありません。でなければ、もっと早い段階で私へ接触してきていたはずです。時間的な余裕は十分あるのでしょう?」

琴子の読みは正しい。
壮士は事前に悪魔から『ゲームの開始時期は未定、最低数ヶ月先だろう』と聞かされていた。
故に悪魔が決断を迫ったのは、言ってみれば単なる嫌がらせに過ぎない。

悪魔が肩をすくめて降参を意思表示すると、琴子は何事も無かったかのように矛を収めて、

「つまらぬイタズラはやめて下さい。無用に波風を立てたところでお互い得るものはありませんよ」
「まあ、そこは悪魔のすることです。嬢におかれては、どうか寛容な心で受け止めていただきたい」

ニタニタと嗤って言う悪魔に、琴子は「戯言を」と興味無さ気に呟いて、

「それよりも、ゲームの正確な開始時期と具体的な内容を説明して下さい。それを知らぬことには判断のしようがありません」
「正確な日時は未定です。が、今日から数えて4ヶ月は保証しましょう」
「4ヶ月ですか……、ゲームの内容は?」
「そちらは言えません」
「理由は?」
「ゲーム内容のすべてが、現時点で決定しきっていないことが理由の一つ。これは、正確な開始日時が定まっていない理由でもあります。もう一つは公平性を保つためです」
「つまり、プレイヤーに事前対策をさせないため、ということですか」
「嬢は理解が早くて助かります。それに比べて……」

悪魔が横目に壮士を見る。

「うるせえ、くそジジイ」

無論、壮士は随分と前に悪魔から同様の説明を受けていて、その時壮士は『なんでだよ』と食って掛かった。きっと悪魔はこちらを『察しが悪い』ないし『馬鹿だ』と言いたいのだろう。

悪魔は呆れた顔で咳払いひとつ。

「先に申し上げた通り、悪魔のゲームは私と神に成り代わり、人同士が争う代理戦争です。契約が成立した場合、嬢と壮士殿は悪魔の側に立ってゲームに臨んでいただきます。
当然、神の側にもプレイヤーは存在します。人の世界がそうであるように、戦争をするにしても守るべきルールがあるというもの。両者間で公平性を保つのは、いわばゲームマスターである私と神の責務です。それ故ゲームが開始される瞬間まで、具体的な内容はプレイヤーに明かされません。
現状で私から申し上げられることは、知力、体力、弁舌、度量に度胸、それらすべてが必要になるであろうということだけです」
「その公平性を、神が保証するとは思えません」
「必ず保証されます」
「根拠を示して下さい」
「このゲームは私と神とで契約という形を取って成立させる物だからです。契約の中に公平性を保つ義務も含まれています。これも先ほど申し上げましたが、契約とは我々にとって絶対なのです。もし破ることがあれば我々は消滅します」
「契約の絶対性とやらを、私は担保しようがありません。契約だから信じろというのは無理があります」
「ご指摘はごもっともではありますが、それは論じたところで詮無いことでしょう。私は契約の絶対性を証明する術を持っておりません。だからこそ私は一馬殿に選択を委ねた。同様に嬢にも選択権を委ねているのです。信憑性の線引を含め、決めるのはあくまでも貴女方だ」
「なかなか口の回る悪魔ですね。……いいでしょう。ついでに尋ねます。私達が敗北すれば貴方が消滅するという理解でよろしいですか」
「ええ、そうなりますな」
「消滅とは死と同義でしょう。貴方に死ぬ覚悟が本当にあるのですか」

嬢――、と悪魔の口元が禍々しく歪んでゆく。
そうして悪魔は、これでもかと愉悦を声に乗せてこう答えた。

「このゲーム。本質的には私と神の殺し合いですぞ?」
「結構」

琴子は悪魔に勝るとも劣らない醜悪な笑みで頷くと、壮士と連絡先を交換したのち帰っていった。

残るは壮士と悪魔の二人きり。
壮士はグッタリとソファに背を預けて呟く。

「改めてこちらから連絡します、か……」
「やはり嬢は聡い。壮士殿は素晴らしいお味方を手に入れられましたな」

琴子が出て行った扉を見つめたままそう言った悪魔に、壮士は「ああ」と緩く頷いて、

「でも、直ぐに頷くもんだとばかり思ってたよ。やっぱり用心深い子だな、あの子」
「まったく、壮士殿は何も分かっておられませんな」
「? なにが」
「嬢が契約を保留とした理由がお分かりか?」
「そりゃ、言ってた通り暫く考えたかったんだろう」
「私に対して過剰なまでに敵愾心を露わにした理由は?」
「そっちは俺も多少違和感を覚えたけど、あの子が神にされたことを思えば当然じゃないか? じっさい俺もお前と神は同類だと思ってるし」

こちらの答えを聞いた悪魔は、目頭を指で揉みながら大きな溜息をつく。

「これは先が思いやられますなあ……」
「なんなんだよ。殺すぞ、クソジジイ」
「なんといいますか、貴殿の血の気の多さはいくらか頼もしく感じてはいるのですが……」
「人を戦闘狂みたいに言うな。こちとら善良な一般市民だぞ。こんなこと言うのはお前にだけだ」

憤然と言う壮士に、悪魔は「まあ、なんでも構いませんが」と苦笑して、

「荒事は、可能な限り壮士殿が引き受けるとして、やはり参謀役については嬢にお任せするのがよろしいかと助言申し上げる」
「言われなくてもハナからそのつもりだよ。しっかしお前……、事あるごとに俺のことディスるよな?」
「それは壮士殿とて同じでしょうに。口癖のように殺す殺すと、もう何度殺されたか分かったものではありませんぞ」
「で、正解はなんだよ。というか琴子ちゃんが契約するかどうか、まだ分からないだろうが」

やれやれ、と悪魔がため息混じりに言う。

「嬢は必ず契約します」
「どうして断言できる」
「今は分からずとも構いません。回答を先延ばしにした理由も、私に敵愾心を露わにした理由も、少し待てば答えは出ますゆえ」

その一言を最後に、悪魔の姿が薄れてゆく――。

『もっとも壮士殿は、琴子嬢の“本当の狙い”に生涯気づくことはないでしょうが』

完全に消え去る間際、悪魔が漏らした言葉は壮士の耳に届くことはなかった。

クロ

クロ

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