神の章 001.プロローグ

前書き

悪魔のゲーム、神の章、第一話となります。
悪魔の章と同様に、こちらについてもプロローグまでの掲載を考えています。
壮士・琴子・奈津と同様に、寛人と葵依をどうぞよろしくお願いします(ぺこり)。

Introduction

金の斧、という寓話がある。

とある村に正直者の木こりがいた。
妻の薬代に回す金もない貧乏な木こりだったが、日々森で薪を切って一生懸命働いていた。
ある日のこと。木こりは誤って一つしかない大切な斧を湖に落としてしまう。
それを見ていた神は、途方に暮れる木こりを不憫に思い、湖底から斧を拾ってきてやる。

神は尋ねた。

『お前が落としたのはこの金の斧か』

木こりは答える。

『いいえ、神様。私が落とした斧はそのように光っていません』

神は再度、湖底から別の斧を引き上げて尋ねた。

『それでは、お前が落としたのはこの銀の斧か』

木こりはもう一度首を振ってこう答えた。

『いいえ、神様。私が落としたのは何の変哲もない鉄の斧です。ありふれた鉄の斧ですが、家族を養っていく為には無くてはならない大切な斧なのです。手元に戻ってくればいいのですが』

神は木こりの正直さに大いに感心し、金と銀、そして彼が落とした鉄の斧までを与えた。
一方、その話を知った別の木こりは、わざと斧を湖に落とし、神が拾ってきた金の斧を自分のものだと偽った。
神は恥を知らない木こりに呆れ、何も渡すことなく去ってしまう。
そうして彼は自らの斧まで失うことになってしまったのだ。

つまるところ、金の斧とは訓話だ。
神様は人の行いを見ている。
正直な者には救いの手を差し伸べてくれるが、不正直な者には罰を与える。
そんな、人のあるべき姿を説く話である。

だが、もし、もしも。

「いまこそ約束を果たそーじゃないか」

実在する神が善なる者でないとしたら。
そして木こりが鉄ではなく、金と銀の斧を持っていて、その両方を失ったのだとしたら。

「どっちがいいか、ひろとんが決めるといいよ!」
「そ、そんなの、えらべるわけ……」

木こりである三上寛人《みかみひろと》は岐路に立たされるのだ。

寛人は善良な男だったが、特別な力を持たないただの人間だった。
故に神は矮小な人に慈悲を与える。

神は三つの道を示した。
金を得るか。銀を得るか。それとも何も得ないか。

それは紛うことなき救済の道。
人には成しえない神の奇跡だ。

「おれは……」

それでも木こりは惑う。
かつて桐山一馬がそうであったように、三上寛人もまた選べるはずがなかった。
何故ならこの選択はワイルドカードと何も変わらない。

「葵依《あおい》……、俺はどうすればいい……?」

金を選ぼうと、銀を選ぼうと、たとえ選ばなくとも。
どの道を進もうと、行き着く先は地獄なのだから。

神の章 プロローグ

視界の大半が灰色で埋め尽くされていた。

学校の体育館程度の広さの空間にソファが2セット。何も映っていないモニタが2台。頭上には光の帯のような物が浮かんでいて、背後には天まで続く一枚張りのガラス板がそびえ立っていた。

おかしい。
まるで覚えのない場所なのに、奇妙な既視感を覚えている。

いいや、この際そんなことはどうだっていい。
既視感以上に不可解なのは、どうして自分がそこに立っているのか判らないことだ。
もっとも、完全な記憶喪失というわけではないらしい。
自分が何者なのかは理解できている。三上寛人《みかみひろと》だ。
そしてもう一人。不安そうにこちらの服の袖を掴む女性のことも判っている。

「寛人……」

彼女の名は立花葵依《たちばなあおい》。大切な女《ひと》だ。忘れるはずがない。
故に判らないのはたった一つ。寛人と葵依は、どういう経緯でこんな場所に立つことになったのか、ということだけだ。
まるでそこだけ白く塗りつぶしたかのように、今に至る手前の記憶だけが欠落してしまっていた。

「大丈夫、俺のそばを離れるな」

言いながら、寛人は薄く微笑みかけて青ざめる葵依の肩を抱き寄せた。

(え……?)

瞬間、寛人は激しく混乱した。

寛人がしゃべった。寛人が葵依の肩を抱き寄せた。
そう表現すると何もおかしくないように思えるが、寛人にはありえないことだ。
だって寛人はしゃべっていない。葵依の肩を抱き寄せてなどいないのだ。
だが今耳にしたのは間違いなく自分の声であり、事実、手には葵依の温かな体温を感じている。

(どういうことだ……)

例えるなら、自分という肉体にもう一つの自分の意識が共存しているような感覚。
視界は一人称。声だって触覚だって自分のものだ。
なのに身体を自由に動かせない、もちろん話せもしない。五感を共有していながらも、肉体の制御だけが、もう一人の寛人の自我に支配されていた。

(夢……なのか? いや、夢にしては生々しいっていうか……)

表現するのが難しい、夢とは別種の臨場感と既視感。
いっそ追体験と言った方がシックリ来るかも――と、主観の寛人が考え始めたその時だった。

眼前、ひときわ豪奢な造りの扉が開いた。

「誰だッ!?」
「…………っ」

寛人は葵依を庇うように一歩前に出て、葵依はビクリと身体を強張らせる。

扉から出てきたのは、恐らくまだ十代であろう女の子。
彼女はこちらを一瞥すると、深々と眉間にシワを刻みつつ、部屋の四隅に視線を走らせ始めた。

「…………」

彼女もまた、主観の寛人には見覚えのない人物だった。
切れ長の目は鋭く、艷やかな黒髪は肩上に切り揃えたミディアムショート。唇は薄く、鼻は少し低め。身長は葵依とほとんど変わらない。160センチ前後といったところだろう。
そんな面立ちの整った女の子は、暫く部屋を観察したあと、何かを諦めたように溜息をついた。
やがて彼女は、ゆっくりとした足取りでこちらに近づいて来て、

「はじめまして。私は※※※※。天祥院学園三年生です」
(……?)

突然ノイズような音がして、名前の部分だけを聞き逃す。
だが、それが起こったのは主観の寛人だけだったようで、声を掛けられた当人である寛人や葵依にはちゃんと聞こえているようだ。
不可解なことが続いている。肉体が確かに耳にしたであろう名前を、主観の寛人だけが認識できないでいた。

「肩書こそ学生ですが、本業はメイドさんです。どうぞよろしく」

敵意が無いという意思表示なのだろう。女の子が軽く両手を持ち上げながら言った。
恐らく『本業はメイドさん』のくだりも、こちらを和ませる為の軽口だったに違いない。
が、肉体の寛人にはあまり効果がなかったようで、

「どうやって俺たちをここに連れて来た? 何が目的だ」
「なにか誤解されているようですが……」

脅すような寛人の低い声を受け、女の子は困惑したように首を横に振り、

「そんなの私が教えてほしいぐらいです。何分か前まで空港に居たはずなんですが、気づいたらここに居たって感じなんです。たぶんですけど……、私も貴方がたと同じ立場だと思います」
「嘘をつくな」

眼光をより鋭くし、即座に寛人が切り替えす。
一方、女の子は心外だとばかりに眉をひそめ、

「嘘じゃないです」
「いいや、断言してもいい。お前は嘘をついている」

直後、驚きを隠すように、女の子がかすかに目を見張った。
寛人はその場に葵依を残し、女の子の至近距離まで詰め寄って言う。

「お前、部屋に入った瞬間、俺たちに目もくれずに部屋を確かめたよな? そのあと納得したような顔で溜息をついた。内容は聞こえなかったけど、何かを呟いてもいた。
今の態度も違和感がある。
正直なところ、俺たちはかなり動揺してる。当然だろう? 玄関の先がこんな訳の判らない場所に繋がっていたんだから。
それだけじゃない。この空間には人が造れないような代物がたくさんあるんだ。どこもかしこも異常だらけ。こんな状況に放り込まれて動揺しない人間なんていないよ。
なのにお前は気味が悪いくらい冷静だ。自己紹介のついでに軽口を挟む余裕すらある。
お前、まだ十代だよな? こんなタフな十代がいてたまるか。
どうして疑われているのか理解したか? したなら今すぐ知っていることを洗いざらい話せ。じゃないと力ずくで口を割らせることになるぞ?」

淀みのない追及を受け、女の子が分かりやすく目を丸くする。
数秒の沈黙を挟んだ後、

「琴子みたいなひと……」

女の子が口元に微笑を浮かべて呟きを漏らす。
意図を測りかね、寛人は眉をひそめながらのオウム返し。

「ことこ?」
「あ、私の妹です。とても勘が鋭くて洞察力に長けた子なんですよ?」

続け様、女の子は「ただの独り言です」とはにかむと、一度葵依に目をやり、それから再度寛人と目を合わせて、

「私のことはともかく、貴方たちの名前を教えてください」
「いいから質問に答えろ」
「こちらが名乗ったんです。貴方が先に答えるべきではないでしょうか?」

一蹴した寛人に対し、女の子は挑発するように口の端を持ち上げて言う。

「もちろん貴方が、自己紹介もできない礼儀知らずというなら話は別ですが」
「……このガキ」
「寛人」

たしなめるような声でそう言って、葵依が隣に並ぶ。
葵依は詫びるように眉尻を下げつつ、女の子に向けて手を差し出し、

「いきなり喧嘩腰でごめんなさい。この人、私を心配してくれてるだけなの。許してあげて」
「大丈夫です。気にしていません」

薄く微笑み、女の子が葵依の手を握り返す。

「よかった。私は立花葵依。よろしくね、※※さん。ほら、寛人も」

促された寛人は、未だ納得がいかないとばかりに腕組みしつつ、

「三上寛人だ」
「三上寛人さんに立花葵依さん、ですか……」

ぼんやりと呟き、女の子は寛人と葵依を品定めするような不躾な目で眺める。
不快感を覚えた寛人の一方で、葵依は黙し、真一文字に結ばれた女の子の口が開くのを待った。

どのくらい見つめ見つめられる時間が続いただろうか。
やがて女の子は意を決したような眼差しを二人に向け、

「お二人に賭けてみようと思います」

寛人も葵依も、彼女が何を言っているのか皆目理解できなかった。
しかし、

「本当は色々と考えていたんです。自分を演じたり、嘘をついたり、隠し事をしたり、唆したり……。この部屋に入るまで、そんな黒いことをたくさん想像していました。でも、やめにします」

そう言った彼女の力強い眼差しに、並々ならぬ覚悟が込められている気がして、

「私はあの子と違う道を歩んでみたい。そしたら、もしこの選択が間違っていたとしても、あの子のように後悔しないで済むと思うんです」
「なに言ってる……?」

眉をひそめる寛人に向かって、女の子が綺麗な笑みで応える。

「寛人さんと葵依さんを信じます」
「よくわからないけど……、なにか知っているのね?」

尋ねた葵依に、「はい」と女の子が静かに顎を引いた。

「以前に私の妹がここへ連れ去られました。なので全部は知りませんが、ある程度のことは知っています。ここがどこなのか、誰が私たちを連れ去ったのか、これから何が行われるのか……」

そこまで言うと、女の子は悔しそうに唇を噛み、考えられない言葉を口にした。

「首謀者は神様。私たちは神隠しに遭ったんです。
そしてこれから、私たちは殺し合いをさせられます」

瞬間、まるでテレビの電源を落としたように、主観の寛人の視界は暗転した。

◆◇◆

次に目に映った景色は、大半が紫色で埋め尽くされていた。

先ほどと異なるのは色だけではない。
視界全体が霞がかっているのに加えて、耳鳴りのような高い音が断続的に聞こえ、さらには頭と顔に濡れたような感触がある。

(クソ、なにがどうなってるんだ……!)

あまりの不快感に寛人は顔を歪ませる。が、例のごとく自らの頬が動いた感触は得られない。
要するに前回と同じ状態、即ち五感こそ共有しているが、その制御はもう一人の寛人にあるということだろう。
とにかく不快だ。焦点の合っていないレンズのような歪んだ景色に酔いそうだし、止む気配の無い甲高い音も耳障りだ。

(夢なら一秒でも早く覚めてくれ……)

と、ボヤケた視界のなかに、動く物体があることに気づいた。
三つの肌色。その内の二つが絡み合い、繰り返し前後に揺れている。

「っ……! ぐッ――! ぅぅ~~ッッ!」

耳鳴りに邪魔されてハッキリとは聞こえないが、何かを堪えるようなその声は、間違いなく葵依のそれだ。

(なんだ……?)

嫌な予感が走った。
それは、その光景は、目をそらすことすら浮かばないほどのその光景は――、

(なんだッ……、これはッッ……!)

葵依が、陵辱されている。

「ぐっ! ぅっ……! ぃ、ゃッ……!」
「やっぱッ! 思ってたとおりっ……っ、いい具合のマンコだわっ!」

愛おしい人が、目の前で、いとも容易く愉しげに、犯されていた。
丸裸に剥かれ、股を開かされた葵依が、モノを扱うように乱暴に揺さぶられている。

「あぁ~~、イクイク、膣内《なか》に出すぞぉ!」
「いやぁぁぁぁぁッッ!」

葵依が叫んだ直後、どこの馬の骨とも分からぬ男の身体が大きく跳ねた。
男は組み敷いた葵依の唇を無理やり奪い、舌を挿し込み、興奮の吐息と共にビクビクと腰を痙攣させる。

(こ、の……、野郎ッ……!)

唾を飛ばし、呪詛をまき散らし、怨嗟の怒号を張り上げたかった。
だが、寛人の身体は声を張り上げるどころか、指一本すら動いてくれない。

何故こんなことになっているのか、ここがどこであるかさえ判らない。
けれど一番理解できないのは、この役立たずの三上寛人は、目の前で犯されている葵依をどうして助けようとしないのか。

(殺すッ……!)

腕が千切れてもいい、足が千切れてもいい。死んだって構わない。
今、この場で喉笛に喰らいつき、目の前の男を殺せるのならばそれでいい。憎い、憎くてたまらない。殺すべきだ。生かしておいてはならない。
この男は確実に、今、この瞬間に、死んでいなければならないのだ。

「あ……、ぉい……」

直後、かすれた声と共に、寛人の右手の指がピクリと動いた。

「寛人ッ!?」
「寛人さん!」

葵依と※※の声が聞こえ、※※が必死の形相を貼り付けながら駆け寄って来る。
上半身を裸に剥かれた※※は寛人の目を覗き込み、

「大丈夫ですか!? 私の声が聞こえますか!?」
「寛人ッ! だいじょ――ぐッ!」

男を跳ね除け、こちらに駆け寄ろうとした葵依が再度組み敷かれた。
男はべろりと唇を舐め、溶けた眼差しを寛人に向けて、

「やあやあ、目が覚めたんですか?
寛人さん、マジ凄いですね。頭蓋骨陥没してるのにまだしゃべれるんですか」

言って、男は愉快げに嗤いながら寛人に近づき、ゆっくりと足を持ち上げる。
その下卑た顔には、圧倒的で、寸分の疑いさえない、勝者の余裕が貼り付けられていた。

「やめてくださいッ!」

両手を広げて割って入る※※。
その意味が、意思が、彼女の抱く思いが、寛人の脳に沁み込んでくる。
未だに彼女が誰なのかわからない。わかりたいのに主観の寛人は知るすべを持っていなかった。
けれど伝わってくるものがある。
抗おうとする彼女の姿に、胸の内から湧き上がってくる衝動がある。

だから、

(やめろ……!)
「ゃ……ろ……」

図らずも呼応した寛人のそれは、彼女に向けたものなのか、あるいは男に向けたものなのか。

「うぜぇ……」

男は不快げに舌を打ち、※※の髪を掴み上げる。
痛みに苦鳴を漏らした彼女に構わず、男は投げ捨てるように腕を振った。

「乱暴しないで!」

倒れ込んだ※※に覆いかぶさり、男を睨みつけたのは葵依だ。

「私が相手をする代わりに、この子には手を出さないって約束でしょう!?」
「気が変わった」

鼻で笑って男が言う。

「どうせ寛人さんは死ぬんだ。そしたらポイントが足りなくなるだろう? 要するにお前らは俺とやるしかない。遅いか早いかの違いだって」

そこから先は口にするのも憚れる酷い営みが行われた。

寛人を庇った※※は後ろから犯され、止めに入った葵依が胸を押さえてのたうち回る。
陵辱されているあいだ、※※はずっと寛人を見つめていて、繰り返し「こんなの、なんてことないですから」と気丈に振る舞い続けた。
葵依は幾度も幾度も男に掴みかかり、理由はわからないが、その度に胸を押さえて絶叫した。

眼前に広がる地獄のような光景。

「ろ……、す……」

二人の寛人の内側に煮詰めたような憎悪だけが、殺意だけが、募っていく。

(殺す……)

ここまで人を憎悪したことはこれまでの人生で一度もなかった。
きっとこの思いは生涯消えることは無いだろう。
何度呟き、幾度吐き出し、募る思いを絞り尽くしても、尽きることのない憎悪の螺旋。

「かぁらず、こ、ぉす……。こぉし……ゃる……」
(必ず殺す……。まともに死ねると思うなよ……)

殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。

この男だけは殺さねばならない。
他の誰にも委ねることはできない。素姓が一切わからないこの男は、寛人の手で殺されなければならないのだ。

でなければどうして、葵依と※※に報いることができようか。
二人が負った傷にどうして、報いることができるというのか。
この男を惨殺することは、彼女たちの傷を癒やす最低条件だ。

苦鳴が、絶叫が、紫の部屋に響き渡る。

「こ、ぉす……、こ、す……、ろす……、殺……す、ころ……」

寛人は目に灼きつける。
彼女たちが侮辱される様を、脳を煮沸させながら目に灼きつけた。

徐々に、少しずつ、視界が黒く染まっていく。
やがて目の前が真っ暗に塗りつぶされて――。

 

 

――ひろとッ!

 

 

「――ッ!?」

大喝を引き金に、寛人は跳ね起きた。
一瞬なにが起こったのか分からず、呆然とした顔で周囲を見渡す。
が、目に映るのは馴染みの光景、寛人の暮らす賃貸マンションだ。

「寛人……?」

心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる彼女が、間違いなく大喝した声の主であり。
故に寛人は大きな安堵の息を吐くと、それからポンと葵依の頭に手を載せて、

「もうちょっと優しく起こしてくれないか?」
「大丈夫なの……?」
「? 大丈夫って、なにが?」

ほら、と葵依がこちらの目尻を指で拭う。
目の前に突きつけられた指は透明な雫で濡れていた。

「……もしかして俺、またうなされてた?」

うん、と暗い顔で葵依が頷く。
一方、当の寛人は心底不思議だと言わんばかりに首をひねり、

「そっか。また夢を見てたのか」
「今日のはちょっと酷かったかも」
「まあ、泣くぐらいだからな……」

言って苦笑いしつつ、寛人はパジャマの袖で目を拭った。
いかにうなされたとはいえ、いい歳した大人が夢を見て泣くというのはきまりが悪い。

そんな寛人の胸中を知ってか知らずか、葵依が気遣うように言う。

「やっぱり一度病院で診てもらった方がいいんじゃないかな?」
「う~ん……」

深刻な顔の葵依に対し、寛人は実にあっけらかんとしたもので。
なにせ寛人は、夢の内容を覚えていないどころか、夢を見たという自覚すらないのだ。

「もう少し様子を見てからでもいいんじゃないか? 実害はないんだし」
「私にはあるのっ。毎晩毎晩、私がどれだけ心配してるかわかる?」

言って、理知的な瞳に不安を宿し、服の袖を引っ張る葵依。
言い分はもっともだ。もし逆の立場なら、首に縄をつけてでも葵依を病院に連れて行くだろう。
そう思うくらい、夜ごと悪夢にうなされる寛人のそれは、寛人にとってはちょっとした、葵依にとっては深刻な、共通する悩みの種だった。

ともあれ寛人としては、心配をかけていることを心苦しく思う反面、嬉しくも思うわけで。

「心配してくれてありがとう」

薄く微笑み、寛人は葵依の髪に手を差し込む。
肩下の長さのゆるいウェーブがかった黒髪。その感触を楽しみつつ、綺麗な形の頭に沿って手を持ち上げると、糸のように細いそれが指の間を舐めるように滑り落ちた。
そうして寛人の手は葵依の頭のてっぺんに至り。

「愛してる、葵依」
「っ……」

瞬間、葵依の頬がほんのり朱に染まる。
葵依はしかし、それを誤魔化すようにこちらの手をぺちんと払い除けて、

「そういうのはいいからっ。病院で診てもらおう? ね?」

残念ながら、愛の力で話を逸らそうという寛人の目論見は失敗に終わったらしい。

「病院なあ……」

寛人に夢を見ている自覚はない。内容だって覚えていない。
ただ、夢を見るようになった時期はある程度絞り込めている。

葵依と同棲するようになってから一週間あまり。
それ以前から葵依がこの部屋に泊まることは幾度もあったが、その時にうなされているなんて言われたことは、ただの一度もなかった。
なので、夢を見るようになったのは同棲するようになってから。ここ一週間ほどの出来事だ。
そんな感じで時期の方は絞り込めているのだが、肝心要の原因に見当がつかない。普通に仕事して、飯を食って、葵依と穏やかに暮らしていただけなのだ。

「考えとく」
「もぅ……、毎回そう言って誤魔化すんだから……」

呆れ気味に溜息をついた葵依に、寛人は苦笑いを返して、

「俺が病院嫌いなの知ってるだろう?」
「知ってるけど……」

葵依の気持ちは理解できるし、申し訳ないとも思う。
もちろん葵依がここまで真剣に心配してくれているのだから、悪夢を見ている事実だって認めている。ただそのことで、寛人本人は何も困っていないし、身体だって健康そのもの。
医者に診てもらえと言われても、どうにも首を縦に振りづらい。

「それはそれとして。今日のは酷かったって?」
「うん。うなされてるのはいつも通りだけど、今日はうわ言みたいなの呟いてた」
「なんて?」
「えっと、同じ単語を繰り返してた感じかな……? 一番多かったのが私の名前で――」
「愛してる」
「もうっ、それはわかったから!」
「わかったからとはなんだ。愛してるのは俺だけか?」
「~~~っ、わかったわよ! 言えばいいんでしょう!? 私も愛してる! 大好き! これでいい!?」

捨て鉢気味に照れる葵依を愛でつつ、寛人は満足そうに顎を引く。

今日の葵依も可愛くて美人さんだ。
寛人はあまり照れない性格もあって、結構な頻度で葵依への愛を告白している。
乱発すれば値打ちが下がるのは自明の理。しかしこの愛しい彼女さんは、毎度毎度素直に反応してくれるのでありがたい。
葵依と付き合い始めてからもう五年近くになる。
出会った頃の彼女は高校を卒業したての大学一回生だった。短くない月日を経て、葵依は可愛い人から綺麗な人に変わったけれど、中身の愛らしさだけは変わらない。

そんなことを考えつつ、寛人は促すように首を傾けて、

「続きをどうぞ」
「次に多かったのが『殺す』かな」
「また物騒な夢だな……。まさかとは思うけど、俺が葵依を殺すって言ったんじゃないだろうな?」
「違うんじゃないかな? 『葵依を殺す』とは言ってなかったし」

サラッとそう答えるあたり、どうやら葵依はこちら以上に、寛人が『葵依を殺す』と口にするとは思っていないようだ。
寛人はほんの少し温かな気持ちになりつつ、

「あとは?」
「“ナツ”」
「ナツ?」
「うん、ナツ。たぶん人の名前だと思う」
「季節の夏じゃなくて?」
「ナツのイントネーションが『夏』じゃなかったの」

そう言って、葵依が『ナツ』と『夏』を言い比べてくれる。
専門用語で表現するなら『ナツ』は頭高、『夏』は平板。
アクセント記号を用いると『ナツ』は『ナツ●○』となり、『夏』は『ナツ●●』となる。

「人の名前な……」
「心当たりない?」

寛人は黙して首を振る。
仮に『ナツ』が名前なのだとしても、寛人にはどこの誰だか想像もつかない。
会社の同僚、知人友人、学生時代にまで遡っても『ナツ』という響きを持つ名前の人物は一人も居なかった。

「なにか別の言葉の一部かもしれないな……」
「でも名前だったら、ぜったいに女の子の名前だよね?」
「え……?」

寛人は跳ねるように葵依に目を向ける。
彼女の声は、暫く聞いていない氷のような冷たい響きを帯びていて、

「……まさか浮気してるんじゃないでしょうね」
「寝起きに二回も告白した俺になにを言うか。俺は葵依一筋だ」

揺るぎない自信を込めに込め、即答する寛人。
葵依はしかし、一層声を冷たくして切り返す。

「嘘つき。なにが私一筋よ。一伽《いちか》にはデレデレしてるじゃない」
「…………」

押し黙った寛人それは、つまるところ無言の肯定。
込めに込めた自信は一瞬にして霧散してしまっていた。

いや、正確にはデレデレなんてしていない。
ただ、目に入れても痛くないくらい可愛いし、実際可愛がってもいる。それだけだ。
もちろんそんなことは口にしないが。

「今日もデートするんでしょう? 一伽と」
「なんで知ってる……」
「ライン、来た」
「……なんて?」

葵依が拗ねるから黙ってろって言ったのに! とは言えなかった。
もう手遅れだ。こうなったら守勢に回る他ない。

「センセがデートに誘ってくれた! いいでしょー? って。……ドヤ顔のスタンプと一緒に」
「デートじゃない。テスト頑張ったご褒美に、ちょっと遊びに連れて行ってやるだけで……」

目を逸らしながら言い繕う寛人。
かたや葵依はニコリと微笑み、こちらの頭をガッチリ掴むと、無理やり目と目を合わせて、

「デート、するんだよね? ひろとセーンセ?」

クロ

クロ

自作小説を投稿しています。成年向けの内容を含みますので18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。
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